烏賊がな
-中里探偵事務所-
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場面38
小説というものはすべての章がいわば必然的に同時に生まれ出るものであり、戯曲もまたあらゆる場面がいっせいに生まれ出るものなのだ。ヴィクトル・ユゴー一
『ノートル=ダム・ド・パリ』
庭に降りた妻
片岡明貞
どこか下の方から小さな声が聞こえきて、目が覚めた。
私はベッドから降りて、ドアを開けた。階段を降りるとき、カラスがギャーと鳴いた。また鳴いてるとおもった。空気の感じが妙だった。
リビングはいつもと変わっていなかった。右手奥のキッチンにあるガレージに通じるドアに近づいた。妻が洗濯物を干しているはずの時間だった。ガレージに降りると、空気が冷やっとして、埃っぽかった。車の横を歩き、南側のドアの前に立った。ドアを開けると、正面に見えるはずの物干しが見えなかった。南にあるはずの隣家も見えなかった。一歩、右足を前に進めようとする前に、下方からの風を感じて、視線を下げた。思わず、前に進めようとした右足を引っ込め、ドアの両側の壁に、両手でしがみついた。庭がなくなり、ちょっとした断崖になっていた。下の水辺に妻が横たわっていた。私は、知らないうちに大声を発していた。
「志乃、大丈夫か」
返事はなかった。
私は断崖を回りこみながら下へ降りていった。降りながら何度も何度も妻の姿を確認した。妻はうつぶせに横たわっていた。瞥見(べつけん)したところ、特に異常はなさそうではあったが、妻は横たわったままで、ぴくりとも動かなかった。
「おい、どこを打ったんだ」
「よくわからないのよ」
妻はくぐもった声でこたえた。カラスの鳴き声にかき消されそうな声であった。
「どこも動かないのか」
「ええ。力を入れると痛いの」
大変なことになったとおもった。しかし、なぜ、庭がこれほど深く陥没してしまったのだろうか。しかも、断崖のようになったむき出しの斜面は濡れていた。水道管が破裂して、水が漏れだしたのかもしれない。不可解なことはほかにもあった。斜面は、びっしりと苔で覆われていた。私の家の前庭は、たった一晩で、小さな沼のようになった場所へ降りる斜面の上部になっていたのだ。
私はなんだか夢をみているような気持ちで、斜面を降りていった。あと少しで妻が横たわっているところに着くとおもっていると、妻の体が前方の水のなかにだいぶ滑り落ちそうになっていることに気づいた。
「危ないぞ。水に漬かっているじゃないか」