烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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 しかし、妻は体がいうことをきかないみたいで、なすがままに、急な斜面を水の方へずり落ちていった。私が着いたときは、もはや手遅れだった。彼女は水に深く沈んでいった。
「おい、志乃、志乃! 待ってろ、いま助けるからな」
 私は、サンダル履きのまま沼の中にはいっていった。とたんにサンダルごと泥のなかに足が沈んだ。足をあげるたびにサンダルが脱げそうになった。私は、腰をかがめて、無我夢中で泥を両手ですくった。すくっても、すくっても、妻の体を探りあてることはできなかった。泥のなかに硬い石のようなものがあり、それが時折私の手のなかに残るので、手を広げて確認してみると、大きな田螺(たにし)だった。突然、私はある記憶を思い出した。
 一年ほどまえだっただろうか、私が田んぼのあぜ道を散策していると、ギャアギャアという鳴き声が聞こえてきた。道はゆるやかな勾配になっていた。登りきると今度はゆるやかな下り坂であった。登りきるあたりまでくると、たくさんのカラスがあぜ道を占領しているのがよくみえた。なにか地面に落ちているものを騒がしくつっついていた。もう少し近づいてみると、それは無数の田螺であることがわかった。私は前日の大雨のあとなので、用心して傘を持っていた。それを振りまわして近づくと、カラスたちは遠ざかっていった。前夜の大雨でこの田んぼの水があふれ出て、田螺をあぜ道に打ちあげたらしかった。まだ日が高くないから、田螺はみずみずしさを保ち、いきいきとしていた。しかし、カラスの襲撃を受け、ひどくつつかれたものも多かった。それでもまだ大部分は無傷のようであった。このまま田螺を干からびさせることも、カラスに食べさせることも、私に任せられているようにおもえた。そのとき、なぜだったのだろうか、ふとこの田螺たちに同情したのである。私は、この田螺たちが、将来の自分のようにおもえた。独り暮らしの私が、いつか年老いたとき、自分の部屋で身動きできずにいる姿を、このころの私はよく想像していた。段差につまずいて転倒し、どこかの骨を折った私は、そのまま身動きできず、かといって、だれも助けてくれる者もいず、床の上で、飲まず食わず、死ぬまでそのまま仰向けになっているのだ。そうおもうと、私は、この田螺たちに親近感を感じた。そして、無性にこの命を救ってあげたいような気持ちになった。私はゴム長靴の側面を使って、田螺を田んぼにいれていった。カラスたちがギャアギャアと、耳障りに鳴きつづけたが、私はかまわずに足を払った。田螺をすっかり田んぼにいれおえると、私は、その場を立ち去った。カラスたちは、田螺が残っていないかと、畦(あぜ)道をうろうろしていた。田螺が沈んだあたりを飛びまわっているのもいた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月