烏賊がな
-中里探偵事務所-
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そんなある日、ちょうど新作を編集者に渡して、新しい話を巻き貝から聞き始めたところだった。志乃の声は意外なことをいった。これが最終回です。そう、たしかに志乃はそういった。私ははじめ聞きまちがいかとおもった。しかし、最後まできいてみると、たしかにストーリーは完結していた。私は、確かめようとおもって、もう一回最初から聞いてみた。そうすると、やはり志乃はこれが最終回だとはっきりいった。私はパソコンに入力するのをためらった。しかし、編集者に渡さないかぎりは、この話が二度と聞けなくなることはないとおもって、入力をはじめた。そして、ついに入力がおわった。このデータを渡したらどうなるのだろうかと私はおもった。ほんとうにこれが最後の話で、もう巻き貝に耳をあてても、志乃の話を聞くことはできないのだろうか。私は、そのことをもっとも心配した。もう本をださなくてもいいから、ずっと志乃の声を聞いていたかった。私は、編集者には渡さなかった。もうこれ以上は書けないといった。編集者は弱った。私のファンたちも、続きをせがんだ。しかし、私は拒否した。しばらくの間、私は出版社やファンの圧力をしのぐのに、大変な努力を強いられた。しかし、一、二年ほどで彼らは私の話に対して興味を失ったようだった。私は圧迫を感じなくなって気が抜けた。五年もたつと、私の本を書店で買うのは難しくなった。ネット販売でも購入しにくい巻があった。十年たつと、私の本は少数のマニアのあいだでしか取引されなくなった。そうなってみて初めて、私は志乃の言ったことを理解できた。売れる本を書くことには、ほとんど意味がない。それよりは、自分の大切な人のために何かすることの方が大事なのだ。そういったことを理解したときにもう志乃はいなかった。私は志乃がいるときに、なぜ出版社からの依頼を断らなかったのだろうと後悔した。しかし、もう遅かった。
私は、毎日一度巻き貝に耳をあてて志乃の声を聞いている。私のところにきている家政婦たちはかなり以前からそれを知っている。私の本がいちばん売れていたころだった。書斎のイスに腰かけて、長時間巻き貝の話をきいていれば、さまざまな家事の都合で私の書斎を出入りする家政婦の目を逃れるのは難しいためだった。私は家政婦に、妻の形見なんだといった。家政婦はそれはお気の毒ですねと私を慰めた。こうすると妻の声がいまでも聞こえてくるんだよと私はわざと本当のことをいってみた。相手が信じないとおもったからだ。きかせていただいてもよろしいですかと、家政婦はいった。私は少し躊躇したが、巻き貝を家政婦に渡した。なんだか懐かしい波の音がきこえますねと、家政婦はいった。私は、ああといった。それ以来、その家政婦は私が巻き貝に耳をあてていてもとがめなかった。奥さんを亡くされてお寂しいですねということと、奥さんのことをいつまでも大事にされていてすばらしいですねということを、私にたまに伝えるぐらいだ。半分はその通りだった。その家政婦からほかの家政婦にも伝達されたのだろう。家政婦たちのだれもそのことで私に質問するものはいなかった。家政婦たちのなかには、私を認知症になった気の毒な老人とおもっているものもいるかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。私にとってもっとも大切な時間はこうして志乃の声をきくことなのだから。
私は、毎日一度巻き貝に耳をあてて志乃の声を聞いている。私のところにきている家政婦たちはかなり以前からそれを知っている。私の本がいちばん売れていたころだった。書斎のイスに腰かけて、長時間巻き貝の話をきいていれば、さまざまな家事の都合で私の書斎を出入りする家政婦の目を逃れるのは難しいためだった。私は家政婦に、妻の形見なんだといった。家政婦はそれはお気の毒ですねと私を慰めた。こうすると妻の声がいまでも聞こえてくるんだよと私はわざと本当のことをいってみた。相手が信じないとおもったからだ。きかせていただいてもよろしいですかと、家政婦はいった。私は少し躊躇したが、巻き貝を家政婦に渡した。なんだか懐かしい波の音がきこえますねと、家政婦はいった。私は、ああといった。それ以来、その家政婦は私が巻き貝に耳をあてていてもとがめなかった。奥さんを亡くされてお寂しいですねということと、奥さんのことをいつまでも大事にされていてすばらしいですねということを、私にたまに伝えるぐらいだ。半分はその通りだった。その家政婦からほかの家政婦にも伝達されたのだろう。家政婦たちのだれもそのことで私に質問するものはいなかった。家政婦たちのなかには、私を認知症になった気の毒な老人とおもっているものもいるかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。私にとってもっとも大切な時間はこうして志乃の声をきくことなのだから。