烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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場面40

詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂(はち)のように蜜(みつ)と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。
リルケ
『マルテの手記』

 優果は鴻上教授の研究室にはいった。
「こんにちは」
「やあ、大塚さん」
 ゼミ生用のパソコンで作業をしていた陽菜もそっけない挨拶を交わした。打ち合わせどおりだった。
 鴻上はコーヒーの準備をはじめた。豆を挽く音がほかの音をかき消す。ミルの音がやむと、陽菜がパソコンのキーをたたく音が部屋にもどった。その音も消えた。
「先生、ちょっと教えていただいてもよろしいですか」
 鴻上がコーヒーのカップを優果と陽菜の前に置くと、陽菜が卒論の内容について質問をはじめた。打ち合わせどおりだった。
「なんだい?」
 鴻上はコーヒーのカップを傾けた。
「フランス革命が起こって、イギリスの貴族たちは身の危険をどの程度感じたのでしょうか」これはほんとうに陽菜が卒論を書くにあたって困っていることだった。しかも、鴻上が熱心に説明したくなることだった。
「そりゃあ、フランス革命が起こったとき、イギリスの貴族たちは脅威を感じていただろう。その様子は、『二都物語』にも少し描かれているよね」
「ええ、それで、イギリスの貴族たちのそのときの気持ちを詳しく知りたいとおもったんです」
「そうだよね。フランスみたいにイギリスの王政を打倒されたら、自分たちの将来を失ってしまうからね」
 陽菜の向けたテーマは、大当たりだった。鴻上は、フランス革命後の、対仏大同盟とナポレオン戦争について、いつまでも話し続けた。
「だから、イギリスはフランスの革命政府を認めなかった。認めないだけではなく、各国と同盟を結んで、フランスを攻撃した。フランスも負けなかった。フランスもほかの国と同盟を結んで、イギリス側と戦った。ナポレオンが登場したのは、この戦争の最中だったんだ」
 陽菜は真剣にメモをとっている。
 優果は申し訳なさそうに鴻上の講義をさえぎった。
「鴻上先生」
 鴻上はまっすぐ立っている優果の方を振り向いた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月