烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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54

 優果は「シェークスピア資料」というタイトルのエクセルファイルをひらいた。シェークスピア関連の文献が一覧表にしてある。「Sheet2」というタブをクリックした。この新しいシートに、いちばん古い履歴をプリントスクリーンでコピーして、貼り付けた。山脇に教わったとおりだった。画面がきれいに写しとれた。
 次に、「Sheet3」をクリックした。次に古い履歴をプリントスクリーンでコピーして、貼り付けた。
 新しいシートをひらく。次の履歴を貼り付ける。新しいシートをひらく。次の履歴を貼り付ける。新しいシート。次の履歴。延々とこれの繰り返しである。
 新しい技術を習得するのは、大変なことだけど、それを使っての作業は、あまりにも単純なことの繰り返しにすぎないのだ。優果はそんなことをぼんやり考えた。弁護士になるのは大変だ。なってからも難しい業務がたくさんある。しかし、難しい業務も、その一つ一つの作業自体は、単純なことの繰り返しにすぎない。医者もそうだ。なるのは大変だし、なってからも大変だ。しかし、目の前の医療行為自体は、一つ一つの作業を、順番通りに丁寧に間違いなくやっていくことである。たとえその医療行為自体を習得するのに大変な努力が必要であったとしても、いちど身についてしまえば、もう特別なことではなくなる。そう考えると、一つ一つの作業に対する報酬の違いはなんだろう? 習得する難しさと責任か? 人気か? 勤続年数か?
「大塚さん、コーヒー、また飲みますか?」
 横の方から鴻上が自分を呼ぶ声がしたので、優果は慌ててエクセルを閉じた。
 声が近かったので慌てたが、鴻上が立っていたのは、コンロの前だった。コーヒーを淹れるために、やかんを使っていたので、秘密の作業を見られる心配はなかった。しかし、優果はエクセルは立ち上げずに、ワードでの作業に集中した。インターネット・エクスプローラーもいったん閉じておいた。
 鴻上の言葉にこたえ、コーヒーができるのを待った。研究室内は香ばしいコーヒーの匂いでいっぱいになった。
 優果のカップについだコーヒーをマウスパッドの近くに置くと、鴻上は画面をのぞき込みながら、しばらくコーヒー片手に雑談をした。
 やがて陽菜の前にもどった鴻上は、イギリスとフランスがいかに対立していたかという話に没頭した。
 優果はマンボウの話を読んだことがある。何百メートルもの深海にもぐってクラゲを捕まえるのだそうだ。さすがに体力を消耗するのである。すると海面まで上がり、あの平べったい体を横倒しにして、休むのである。それが漁師からするとのんびり昼寝しているようにみえる。
 鴻上がマンボウに重なった。いったん説明しだすと、深く深くもぐり込む。気力体力を消耗すると、コーヒーを淹れて、軽い話をのんびりする。いまはまた、陽菜といっしょに深海にもぐりにいったようだった。
 優果はまた履歴をプリントスクリーンしていった。二人のマンボウはなかなか海面までもどってこなかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月