烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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場面41

 まるで、レイシの実みたいに、犯人(ホシ)が割れることがある。
 ブラジルナットのダイアモンドに負けないくらいかたい殻に手こずり、はやく、なかの、やわらかい、おいしい実がたべたいとよだれをながしているとき、すこし指先に力をいれただけで、うすい、紙みたいな皮しかないレイシのように、ひょこっと、なかの実がとびだす。
エド・マクベイン
『通り魔』

 病院のロビーで、受付が始まるまで、片岡明貞(あきさだ)はソファーに腰かけ、池を眺めていた。松林に通路が延びていた。そこに出て池を眺めてみようと思ったが、雨が落ちているので、よした。はじめは何もいそうではなかったが、底の方に小さい魚が群れていた。時々体をよじらせて、底にへばりついた藻を食いちぎっている。いるのはこのちびちゃい魚だけかとおもっていたら、いきなり巨大な影がよぎった。黒っぽい鯉であった。そのうしろから子どものやはり黒い鯉が泳いできた。あめんぼが水面をスケートして、どこかへ去っていった。池のへりに急降下して止まった鳩は、一口池の水を飲むと脚を滑らせ安定を失った。すかさず傾斜のある石造りのへりで蹈鞴(たたら)を踏んで安定を取りもどすと、ジェット機のような角度で南の棟の方へ飛び去った。
 明貞は読みかけの『細雪』をまたひらいた。学生の頃に一度読んだのだが、もうほとんど忘れていた。
 上はすでに読みおわって、中にはいっていた。
 中は妙子ばかりでてくる。
 『細雪』の主人公は三女の雪子である。しかし、雪子はあまり活躍しない。登場する場面も次女の幸子や四女の妙子に比べると圧倒的に少ない。めったに登場しない長女の鶴子よりは活躍するが、主人公と呼べるほどのものではあるまい。『細雪』の主人公はむしろ幸子だ。それぐらいこの小説は、幸子の視点で見た場面が多いのである。次に出番が多いのが四女の妙子だ。妙子は物語に花と波瀾を与える重要な役回りである。
 妙子が舞いを披露する場面は、とりわけ華やかである。『細雪』には、日本の伝統美がいくつも登場するが、華やかさでは、この場面、一、二であろう。
 妙子の着物姿を知り合いの写真屋が撮影する場面がある。この写真家は、妙子に対して妙になれなれしい。唇に塗った京紅が落ちないようにして、ちらし鮨を少しずつ口にいれるために、鯉のように口をOの字にあけて、そこへまっすぐ箸をいれる。これをずっと見ながら、写真家は軽口をたたく。この場面はなんとも隠微である。
 人間ドックにやってきて、ロビーで文庫本をひろげた明貞が読みだしたのは、それに続く場面であった。
 神戸の街が洪水に見舞われた。
 事態が深刻に感じられるようになったのは、朝、妙子が学校に出かけたあとであった。
 街には噂が飛びかった。
 妙子の学校の方面がどうやらもっとも深刻な状況らしかった。
 妙子のことを心配した義理の兄が、洪水の街にでていく。
 妙子の学校の間近で、義兄は捜索を断念せざるを得なくなる。自分自身が遭難しかけ、あやういところを助けだされたのであった。
 そのあと、妙子が学校の女教師の家に招かれる場面に転換する。
 明貞は夢中で読んでいた。しかし、そこで現実に引き戻された。とうとう検査がはじまったのである。
 明貞は、検査の合間合間の待ち時間に続きを読んだが、あまりはかどらなかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月