ツェねずみ
-中里探偵事務所-

探偵
prev

2

場面52

人は猿より進化している。
森鴎外
『牛鍋』

 事務局に入ると、みな忙しそうに書類仕事をしていて、会社のオフィスのようであった。大学の研究室は、事務局とは違い、独特な空気が漂っていて、一般社会と隔離していることを、ここへ来るたび痛感する。
「鴻上先生、こちらでお待ちになっています」
 事務員が応接室を示した。
 ドアを開けると、お茶を飲んでいる男女が見えた。鴻上に気づくと、立ち上がって挨拶をした。鴻上も挨拶をした。女性の方は、ゼミ生が交通事故で死亡した直後に何度か来訪した刑事だった。
「何度もお邪魔しましてすみません。今日お伺いしたのは、当時のことについて思い出されたことでもあれば、お話しいただこうと思いましたわけなのです。なかなか新しい事実も出てこないので、我々も困っていまして、わらにもすがる心境なのです」
 女性の刑事が言った。当たりが柔らかくて、刑事と言うよりは、企業の営業担当のようだった。
「こちらは栃木県から来た皆川です。栃木県で起きた交通事故に似ているので、参考になることがないかと考えて私の捜査に合流させていただいています」
「皆川です」
 皆川巡査長は大きくてたくましい手を差し出した。鴻上は華奢で白い手を差し出した。
「伊藤がすでにお伺いしたことと重複することばかり伺わせていただくかとは思いますが、栃木県の交通事故の解決のためにも、どうかご協力下さい」
 皆川は亜沙子と高柳の手法に接して、少し変わっていた。亜沙子は丁重だが隙のない話し掛けで、当初の目的を確実に達成する。高柳は慎重だが、ここぞというときには思い切ったことを平気でやる。それまでどちらかというと直球勝負だった皆川は自分の手法を冷静に振り返るようになった。もっと大きいのは譲の影響である。譲の出方は予想が付かない。のんびり後ろの方を歩いているかと思えば、いつの間にか遥か前方を走っている。悔しくて追い抜こうとすると、急にスピードを緩めるから、簡単に距離が縮まる。「捕まえた」と喜んだ瞬間、ワナが待ち受けているのに気づく。
 そういう手法で鴻上を引っ掛けられないだろうかと思うが、形ばかり真似しても仕方ないので、基本的には自分らしい言い方で始めることにした。
 もっともすでにここにも譲のワナが仕掛けられているのだから、皆川自身はどうしようと考える必要もなく、気が楽であった。気が楽であるから、皆川はいかにも形式どおりのことを淡々と聞いていった。むしろ型どおりに質問することが皆川の役目であり、型どおりに徹すれば徹するほど、効果的であった。
 皆川は以前に伊藤が質問したことと同じことを質問した。
 鴻上はいらだつでもなく、以前に伊藤に答えたことを丁寧に繰り返した。
 皆川の質問が止まった。誰も口を開かなかった。エアコンだけが音を立てていた。皆川は伊藤に目で合図した。伊藤が口を開いた。
「では、これで質問は終わりです。どうもお疲れ様でした。また捜査に進展が出てきたときにはご協力をお願いいたします。本当に今日はありがとうございました」
 型どおりの挨拶が続き、やがて二人の刑事は去っていった。鴻上も事務員に声を掛けて事務局から出た。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ツェねずみ-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2019年3月