ツェねずみ
-中里探偵事務所-

探偵
prev

3

場面53

僕には負けじ魂がある
森鴎外
『ヰタ・セクスアリス』

 鴻上が出ていっても優果は動かなかった。五分は動かないようにという譲の指示があったのだ。皆川たちと鴻上が話し始めてすぐに、鴻上が何かを取りに研究室に戻るということがないとも限らないからだ。
 鴻上が出ていって十五分以内には全てを終わりにするようにという指示もあった。皆川の事情聴取は二十~三十分を予定していたからだ。
 つまり、優果が作業を許されるのは十分間だけだった。といってもたいしたことではない。鴻上の書棚に並んでいる本をカメラに写すだけだった。こんなことは、わざわざ作戦を立てなくても、いつでもできそうなことではあった。しかし、できるだけ早く機会を作る必要があった。しかも、確実で安全な方法を取りたかった。
 明日、火曜日は、鴻上の車で優果が伊勢神宮に行く日であった。警察側とすれば、それは、できれば避けたいことだった。一番いいのは、そうなる前に鴻上を拘束することだが、そうなるために現在できることは、せいぜいパスワードのヒントを探すことぐらいだった。
 譲は、鴻上の蔵書の中に手掛かりがあるかもしれないと思った。譲からそれを聞いた栃木県警の捜査員たちも、強く異論を唱えなかった。というより、目下できることは本当にそれぐらいしかなかった。
 優果はポケットからスマホを出して、書棚の前に立った。二分もすると、全て終わった。所長にメールで送ると、写真を削除した。そしてまた、パソコンに向かい、キーボードを叩いた。やることはあった。彼女はシェークスピア研究が楽しくなってきていた。わからないことがでてきた。ネットで調べると、ある文献が見つかった。それが鴻上の書棚にないかと思い、立ち上がった。さっき写真を撮った書棚を、また一通り見た。なかった。鴻上の机もみた。本が何冊か並べてあったが、ほしい文献はなかった。そのとき優果は、ここに並んだ本も写真に撮った方がよいのではないかと思った。ポケットからスマホを出した。並んだ本を画面に収める。廊下に足音が聞こえた。シャッターを切る。ドアノブがカチャリと回る。スマホをスカートのポケットに入れながら、移動する。ドアが開く。自分の机の横に立つ。鴻上が顔を上げて、優果を見る。
「あ、先生、お帰りなさい。お疲れさまでした」
「ただいま。どうかしましたか?」
「え、ちょっと、お手洗いに行こうと思いまして」
「あ、そうですか。どうぞ」
 鴻上は、ドアノブを持って、優果が出て行きやすくした。
「すみません」
 廊下に出た優果は、歩きながら、自分の胸を手のひらで押さえた。どきどきと胸が鳴っていた。
 (危ないところだった。こういう場合のより安全でより確実な方法をもっと研究しなくては。)
 ――このぐらいのことでひるむ優果ではなかったのである。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ツェねずみ-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2019年3月