ツェねずみ
-中里探偵事務所-

4
場面54
書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さとをもって読まれなければならないポール・オースター
『幽霊たち』
一日雨であった。
明貞は、中里探偵事務所の玄関で傘を畳み、靴を脱ぐ。
「たびたび来てもらって悪いな」
「なんの、なんの。こっちこそ、いつもおいしいものを悪いな」
テーブルに料理の準備がしてある。
大皿に盛られた魚と野菜と茸が食欲をそそる。
譲が慣れた手つきで、箸を使う。
七輪の上で烏賊が踊り出した。上から醤油が降りそそぐ。ジュッと音を立てる。
「この匂いがたまらないな」
明貞はすでに二杯目のビールのコップを持ち上げている。
ハマグリがふたを開けた。上から醤油が降りそそぐ。
ハマグリの殻が皿に次々に捨てられていく。
「これが教授の書棚か」
液晶テレビの大画面に写真が大写しされる。
「どうだい? 何かひらめくかい」
「うーん」
明貞は腕組みをして、難しい顔をしている。
書棚の本の写真は終わった。
「ひらめくものはなかったな。一冊一冊調べるしかないな」
「そんな時間はないよ」
譲がマウスをクリックする。優果が最後に撮った写真が映しだされる。ピンぼけである。譲がまたマウスをクリックする。最初の写真に戻る。
「ちょっと、さっきの写真に戻してくれないか」
「え? この写真かい?」
譲はマウスをクリックする。ピンぼけの写真が再び映しだされる。
「あの分厚い文庫本……」
明貞は目を大きくして、画面を凝視した。ぶれていて、タイトルの文字が読みにくい。
「なんだろう? ずいぶん分厚いな」
「たぶん『細雪』だと思う」
「谷崎潤一郎だったっけ?」
「俺、今これ読んでるんだよ」
「今持ってるかい?」
「今はないけど、うちに行けばある」
「でも、『細雪』がそんなに気になる小説か?」
「読んでいるときには、気にならなかったが、今、ユズの前にいて、深刻な事件の関係事物に『細雪』が含まれていると思うと、気にならなかったことが、気になることに見えてくるのだ」
「どういうことだ?」
「俺が読みさしたあたりが、神戸の大洪水の描写なんだよ」
譲は茸を箸でつまんだまま、明貞の顔をじっと見た。
「それ、今、読めないかな」
「アマゾンなら明日ぐらいに届けてくれるんじゃないか」
「いや、今、読みたい」
譲は、茸を網に載せて、ノートパソコンが置いてあるテーブルに移動した。
「キンドルにあれば、すぐ読める」
そのうちに茸がよい香りになった。
「椎茸が焼けたぞ」
「先に食べててくれ」