ツェねずみ
-中里探偵事務所-

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場面59
今日の出来事はこう云う畠に生えた苗に過ぎない。森鴎外
『青年』
譲の人差し指がリズミカルにキンドルの画面を叩いていた。
「根本陽菜の話に似てるな」
「実はまだ、神戸の大洪水のところを途中までしか読んでないんだ。貞之助が妙子を助けに行くところだったかな」
「妙子の訪問先が急に床上浸水して身動きが取れなくなったところを、間一髪で男に救い出された場面は読んでいないかい」
「その前辺りまでだ。貞之助が、妙子の通っている洋裁学院のすぐ近くまで来たところで止まっている」
「決死の覚悟で妙子を救い出したのは、板倉という写真師だ。奥畑という妙子の婚約者に使われている男だ。このことがあってから、妙子は板倉に愛情を抱くようになった。なぜならば、奥畑は洪水を恐れて妙子を助けることができなかったのに、板倉は命がけで助けに来たからだ。妙子は板倉と恋愛し、やがて結婚を考える。ところが、妙子は旧家の出、板倉は貧家の出、当然家族に反対された。板倉は岡山に実家がある。岡山に駈け落ちして写真館を開こうとするが、その矢先に板倉が病気になる。最初は何でもないような症状だったが、次第に悪くなり、片足を切断しなければならなくなる。手術をするのだが、術語の経過は思わしくなく、ついに帰らぬ人となる。と、これが妙子の板倉事件だ」
「根本陽菜が言ってたという話とほとんど同じだな」
「そう。根本陽菜の曾祖母は夕子、『細雪』に登場するのは妙子」
譲は、パソコンの画面を見ながら話を整理していく。パソコンには大塚優果が報告した根本陽菜の話がまとめてあった。それに『細雪』の妙子の話を付け加えて、次のようにした。
一、根本陽菜の曾祖母は夕子、『細雪』に登場するのは妙子
一、夕子も妙子も洋裁学校に通っていた。
一、夕子も妙子も洋裁学校の師匠の自宅を訪問した際に床上浸水に見舞われる。
一、夕子は根本に、妙子は板倉に救出される。
一、根本も板倉も写真師である。
一、根本は夕子の婚約者の知人、板倉は妙子の婚約者の知人。
一、夕子は根本と結婚し、根本の実家のある岡山で写真館を開く。妙子は板倉と結婚することにし、岡山の板倉の実家で一緒に写真館を経営する予定だったが、結婚直前に板倉が病気になる。
一、根本は戦場で片足を失い死亡する。板倉は病気で片足を失い死亡する。
「いやあ、驚きだな。ここまで一致するとは」
「大塚さんが『細雪』を読んでいるはずがないと踏んだんだろうね」
「あんな長い小説、まともに読む人間は、まあ、めったにいないだろうからな。根本という女子大生はなかなかの読書家だな」
「違うさ。鴻上が吹き込んだんだよ」
「ああ、そうか」
「とにかく、報告しなくちゃな」
譲はスマホの画面を人差し指で押し始めた。