ツェねずみ
-中里探偵事務所-

探偵
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場面61

猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人(かりゆうど)を近くは寄せない。
森鴎外
『ヰタ・セクスアリス』

 高速道路を四日市方面に行き、鈴鹿あたりで海沿いに出て、松坂に南下する。
 鴻上は松坂ですき焼きを食べたら伊勢神宮に参拝しようと二人に言った。
 波は穏やかだ。ワイパーがガラスをこする。
「だいぶ降ってきたね」
 鴻上は誰に言うでもなくつぶやいた。
 陽菜はイオンの駐車場で乗り込んでからずっと、黙々と何かを編んでいた。
「あっ、失敗しちゃった。ずっとずれてたのかしら。やだ、ほどかなきゃ」
 後部座席の右側に座る陽菜に後部座席の左側に座る優果が声を掛ける。
「大丈夫? 何か手伝いましょうか」
「じゃあ、大塚さん、毛糸をほぐすのを手伝ってもらっていいですか」
 優果には陽菜が何を考えているのかわからなかった。陽菜の声はいつもと変わらなかった。鴻上とのやりとりにもいつもと違った調子はなかった。ジャズが静かな車内に低く流れた。それが雪の車体に当たる音にあっていて、いかにものどかで平和だった。しかし、何かがおかしかった。味方であるはずの陽菜が、自分に何もいわずに合流した。あらかじめ今日の動きについて下話があってよさそうだった。下話がなかった理由について優果は二つ思い当たった。自分に話をしておかない方が、鴻上を問い詰めるのに好都合だと陽菜が判断したというのがその一つだ。もう一つは、これは、自分にとって恐いことである。陽菜は自分に今日の動きを知られたくなかったのかもしれないということだ。この場合だと、私は今、かなり危ないところにいることになる。そう優果は思った。所長の言葉が次から次へと頭の中に再現されていった。
「……なんだかできすぎてるような気もしますね……あ、すみません、決して根本さんを疑っているわけではないのですよ。たしかに、いま聞いた感じでも、彼女の口調に不自然さはありません。私は、ただ、世の中にはこれほど波瀾万丈の、ドラマのような人生を送る人もいるのだなあと感心しただけなのです。もちろん、陽菜さんの曾祖母の夕子さんのことですが……オールドマーケットのことがわかったら、大塚さんは神戸から戻ってこられます。それまでは、もう少し神戸大学の聴講生を演じていてもらえますか……中里探偵事務所は、オールドマーケットのことがわかったあとも、必要であれば、現地調査員を配置します……大丈夫。綿密な計画を立てるよ」
 優果は陽菜に対する考えが所長とは違うと漠然と感じていた。自分は陽菜を信用していた。しかし、所長は違っていそうだった。優果はそんな所長に反発まで覚えた。だからこそ今日のような出来事が優果に小さくはない打撃を与えたのである。しかし、これが優果の素晴らしいところだが、優果は打撃を受けたからといって、受けっぱなしでいる女では決してなかった。優果は所長の立場になってもう一度陽菜のことをとらえ直してみることにした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ツェねずみ-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2019年3月