ツェねずみ
-中里探偵事務所-
19
場面63
「当然のお務めとして喜んで、お話をいたしましょう。ただし、このいとも立派な、いとも都雅(みやび)な、王様のお許しがありますれば!」『千一夜物語』
廃屋の駐車場に鴻上が車を停めると、優果は陽菜に言われたとおり、「先生、毛糸を渡してもいいですか」と言った。
鴻上は運転席から降りて、後部座席の左側のドアを開けて、そのまま外に座った。そして、優果の方へ両手を差し出した。優果は体を左にねじって両手を鴻上の方へ差し出した。鴻上は手に何かを持っていた。優果が、何だろうと思っていると、その手がすばやく動いて、優果の手首にロープを巻き付けた。同時に、足首も何かで締めつけられているような感触がした。優果が振り向くと、自分の足元で懸命に作業をしている陽菜の背中が見えた。優果は足を蹴り上げようとしたが、力が入らなかった。口を手の方向に動かし、鴻上の手にかみつこうとすると、鴻上は片手で優果の頭を抑え、片手でロープの端を握り締めた。そして、アスファルトの上に置かれたバッグの中から布製の袋を出して、すぽっと優果の頭を覆った。優果の口が作業の邪魔にならないことがわかると、鴻上は再びロープを固定し始めた。
「何でこんなことをするの?」
「私たちの聞きたいことを言いもしないで、その辺の駅から電車に乗って、栃木県に帰られたら困っちゃうからね」
「悪いね、大塚さん、でも、話してくれたら、すぐに手をほどいてあげるからね」
優果は悪い予感の通りの展開になったと思った。
優果は両手と両足を縛られ、布で顔を覆われたまま、初めから座っていた席にそのまま座り続けた。両目のところに穴が開いていたので、車内の様子は見ることができた。陽菜はやっぱり優果の右側の席に座っていた。鴻上も運転席に戻り、座っていた。
鴻上はあまりしゃべらなかった。陽菜ばかりが口を開いていた。陽菜は何の目的で栃木県の足利市から来たのか話せと、割と静かな調子できいた。
「シェークスピアの勉強をしようと思って」
「そればっかりね。もういい加減に飽きたわ」
急に陽菜がドアを開けて外に出た。後ろに回り、ハッチバックを開けた。バタンと大きな音がした。優果の右のドアが開き、大きな青い袋を持った陽菜が座席に座った。
「これ、何だと思う」
優果の初めて見る品物だった。
「寝袋よ」
陽菜は音を立ててチャックを引っ張った。
「この中に入れて、ロープで前の海に下ろすの。十分ぐらい経ったら引き上げて、今度はおとなしくなった中身だけを、どこにも傷がつかないようにして、そっと海に投げ込むの。殴られた跡も傷もないから、きっと自殺したと思うでしょうね。別に話したくないなら話さなくてもいいわ。でも、話してくれたら自殺せずに家に帰れるわよ。ねえ、先生。それでいいんでしょ」
「ああ、もちろんそれでいいさ。ね、大塚さん、本当に話してくれたらすぐにロープをほどいてあげるから、お願いだよ」
優果は話しても家に帰れないだろうと思った。しかし、話さなかったら、すぐに自殺しなければならないみたいだった。
(所長だったら何て言うだろう。)
そのとき、優果の耳は所長の声を聞いたように思った。
(長く生きていれば、成功することもある)
これは、所長が徳川家康の言葉だといって優果に話したものだった。
(そうね。最後のときまでできるだけ時間を引き延ばしてみよう。)
優果はこういう最悪の場合も想定して、あらかじめ考えておいた話をした。
「わかりました。すべてお話ししましょう。恵利さんを殺したのは、私の友達の彼氏だったみたいなんです」
陽菜の反応は予想外のことを言われた人のものだった。
「どういうことなの?」
陽菜は明らかに興味を持ったことが優果にはわかった。これでしばらくの間は時間を稼げるだろう。優果は自分がシェヘラザードになった気分だった。