ツェねずみ
-中里探偵事務所-

探偵
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場面65

どうして引返そうとはしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。――破滅というものの一つの姿を見たような気がした。なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。
梶井基次郎
『路上』

 優果は陽菜の顔を見ていたが、その後ろの状況も確認していた。陽菜の後ろはガラスだった。ガラスの後ろには海が見えた。海には雪が落ちていた。雪は次々に海に落ちていった。海は煮えたぎる噴火口のようだった。雪が入るとすぐに溶けて、消えて見えなくなった。
 優果はあんなふうに自分も海に入ってすぐに消えてしまうのだろうかと思った。どうもそれ以外には考えられそうにもなかった。しかし、所長の言葉が、自分をどうにか支えているようだった。そんなふうにして優果は強い気持ちを保つように心掛け、ストーリーを作った。ストーリーを作るのがうまいのは小説家とは限らない。いや、むしろ、今の私みたいに、自分の命を狙われている者のみが、真に胸を打つストーリー・メイカーなのではないか。
 「友達がとても心配していたので、何とかしてあげたいと思ったんです」
 優果は栃木県の足利女子高校を卒業し、明治大学を出たのは本当だと言った。友達というのは足利女子高校のときの同級生だと続け、次のような話に仕立てた。

 大塚優果は明治大学を卒業し、足利市の実家に戻ると、すぐにコンビニエンスストアでアルバイトを始めた。そこに昔の同級生が来店した。二人は再会を喜び合い、以来、食事をしたり連絡を取り合ったりするようになった。
 ある時、旧友の交際相手の話になった。一浪した旧友と同じく、地元の大学の四年生だった。旧友は順調に学業を続け、無事に就職先も内定していたが、交際相手の男は就活につまずき、ぱたりと学校に行かなくなってしまった。遊行費がかさみ、これ以上親を頼れなくなり、借金を作った。その少なくない借金を返済する手立てがなくなった男は、まとまった金が入る仕事をインターネットで探した。その時に見つけたのが、オールドマーケットのサイトだった。彼は「業務の代行」の業務を請け負うことにした。もちろんこの時点では男はそのことを旧友に話していない。
 ある時、借金の返済が終わったから、これからは真面目に勉強をして卒業し、来年の就活で進路を確定するつもりだと男は旧友に話し、それ以来本当にこの言葉を実行に移していた。安堵した旧友が、彼との将来を真剣に考え、それについて二人で話し合うようになった矢先だった。彼が突然交通事故で死亡した。悲しみに暮れながらも、旧友は男の家族と遺品の整理を行い、二人の思い出の品などを分けてもらったりした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 ツェねずみ-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2019年3月