ツェねずみ
-中里探偵事務所-
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場面68
でも、ちょうどそのとき、大きなまだらのキツツキがあらわれたので、それに気をとられてしまいました。キツツキは白樺の細い幹をせかせかとのぼっていくのですが、幹のかげから心配そうに右を見たり左を覗いたりするので、まるでコントラバスの首の横から演奏家が顔を出しているように見えました。トゥルゲーネフ
『初恋』
亜沙子はダイヤルをひねった。雪でガラスの覆われる時間が短くなった。しかし、ゴムがガラスをこするショスタコーヴィチのバイオリン曲のような音で亜沙子の心はますます追い立てられる。
一九七〇年代にできた海岸沿いのドライブインの跡地に向かっている。実は、ついさっきまで亜沙子はその付近にいたのだった。いつでも根本陽菜を確保できるように張り込んでいたのである。しかし、自然現象には勝てない。要するに化粧室を探して付近を走り回っていたのである。スーパーマーケットの広い駐車場の空きスペースを見つけ、化粧室に飛び込み、電話に出るにははなはだ都合の悪いとき、スマホが軽快なメロディーを奏で始めた。出るのは我慢して、手洗いを済ませたあと掛け直すと、根本陽菜の令状が取れたという高柳の声だった。
ナビに見入っていた亜沙子は前方の車のブレーキランプにやっと気が付いて、つんのめるように減速した。前方の車が停車した。亜沙子の軽はそれにかなり接近して停車した。視界の限り車列があり、遠くの崖の下で、警察官が誘導している。どうやらこちらの車線が通行止めになったようだ。反対車線とこちらの車線を定期的に交互通行させているから、かなり長い渋滞になっている。もうナビ上には優果のスマホが見えているのに、そこまでなかなか近づかない。
烏が車列の間を縫って歩き回って、一声鳴いた。のどかである。雪などまったく気にしていないように見える。車が少し進む。烏が歩いて一声鳴く。雪の上にできた足跡が妙に滑稽に見える。緊迫感がまるでない。亜沙子はなぜかふと譲のことを思い浮かべた。
(譲だったらこういうときどういうことを考えるのだろう? 決まっている。この状況の中で最善を尽くし、結果を待つだけだ。今の状況で最善のことは何だろう? 決まっている。確実にドライブインの跡地に到着し、刑事としての職務を全うするだけだ)
亜沙子はそう考えると、急に気持ちが落ち着いてきた。焦っても渋滞が終わるわけではない。それよりは現地に到着してからの手順を確認する方が賢明である。
(そうだ、いざというときのためにヌンチャクを用意しておこう)
亜沙子はバッグからヌンチャクを出して、スーツの背中側のズボンの中にベルトで挟んだ。もちろん拳銃は所持しているが、相手の凶器が刃物程度であれば、できれば使いたくない。亜沙子はカンフーなら大抵の技はこなせるが、特にヌンチャクは抜群にうまかった。
前方の車のブレーキランプが消えた。亜沙子はアクセルを軽く踏んだ。前方の車はどこまでも走っていく。遠くを見ると、もう警官の姿はない。どちらの車線も通常通りに車が走行するようになっていた。一度もブレーキを踏まないうちに、優果のスマホと自分の車が重なった。左側に廃墟が見えた。亜沙子は慌ててブレーキを踏んで、ハンドルを切った。