ツェねずみ
-中里探偵事務所-

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場面69
ゴーヴィンダはそのことばを聞き、友の不動の顔に、弓からさっと放たれた矢のように向きを変えるよしもない決心を読むと、顔色を失った。ヘルマン・ヘッセ
『シッダールタ』
野村奈美絵は質問の多い女だった。サンマルクホールディングスの本社ビルを出るとすぐにパトカーの中で皆川に質問を浴びせた。
「あのビデオの女の人は何で伊勢にいるんですか」
「あの女の愛人がデートに誘ったんだ」
「あの女の人を愛人がデートに誘ったぐらいで、何で警察が動くんですか」
皆川がちょっと考えていると奈美絵がまた同じことを言うので、皆川は声を荒らげそうになったが、やっとのことでこらえた。
「もう一人女性がいるんだよ」
「じゃあ、その人が殺されるかもしれないんですね。その人があの女の愛人にデートに誘われたんですか。でも、愛人とその女性を一緒に伊勢に連れて行くなんて変じゃないですか」
皆川は辛抱強く奈美絵にいきさつを説明した。
「じゃあ、その女の人は潜入している私立探偵なんですか」
皆川は奈美絵がそんなふうに定義するとは思わなかったので、絶句してしまったが、まあ、そんなところだ、と言うほかなかった。
「恰好いい! 私、探偵に憧れてるんですよ。その探偵事務所っていうのは栃木県の足利市にあるんですよね」
「ああ」
「私も雇ってくれないですかね?」
「はあ?」
皆川は顔をしかめた。
「君は兵庫県民じゃないのか」
「違います。私も栃木県民です。栃木市の出身で神戸の大学を卒業したあと、就職が決まらなかったから、大学生のときからお世話になっている塾で働きながらサンマルクカフェでバイトしてたんです。探偵事務所で雇ってくれるのなら、そちらはいつやめてもいいんです」
「しかし、探偵事務所っていったって、仕事の依頼なんか、何も来ないから、やっていけないぞ」
「どういうことですか」
皆川は面倒くさそうに説明した。
奈美絵は興味津々に聞いていた。
「じゃあ、探偵の仕事がないときは、その天麩羅屋さんでお仕事をしていればいいんですね」
「でも、この事件が解決したら、探偵事務所はやめるんじゃないかな」
「せっかく正式に探偵事務所を発足したのにやめちゃうなんてもったいない。私、あちこちに広告を出します。私、そういうの得意なんです」
「だって、やったことないんだろ?」
「知恵を出せば何とかなりますよ。警察に知り合いだってできたんですから」
「俺のことか?」
「そうですよ。今回の事件で手柄を立てたんですから、私が困ったら助けてくれますよね?」
「何だよ、貸しを返せってか?」
「そりゃそうですよ」
「まあ、ここで話してても仕方ないよ。着いたらその中里守っていう人に会えると思うから、自分で頼んでみなよ」
「やっぱり断られるでしょうか?」
「どうかな?」皆川は腕組みをして考えた。「意外と簡単にOKって言うかもな」