ツェねずみ
-中里探偵事務所-

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場面70
過ぎし日のよろこびの思い出は、今日の悲しみであり、いまある苦悩は、前にあったかもしれない歓喜に源を持っている。エドガー・アラン・ポオ
『ベレニス』
鴻上幹雄がロープを柵に結びつけていると、女が遠くで呼んでいるような気がした。振り向くとスーツ姿の若い美人が手を振っていた。困ったような表情をしていた。鴻上はドキッとしたが、シュラフは閉じてあって大塚優果の姿は見えないし、大塚をシュラフに入れるときに、口にタオルを入れて、紐で縛ってあったから、大きな声も出せないようになっていた。ここで他人に怪しまれてはいけないと思ったので、陽菜に注意を与えた。
「普通にしてるんだ。怪しまれるなよ」
鴻上は立ち上がり、誠実そうな明るい声で声を掛けた。
「どうかしましたか」
「パンクしちゃったみたいなんですけど、工具がなくって困ってるんです。あるのかもしれないんですけど、どこにあるかよくわからなくて。もしジャッキとかお持ちでしたら、貸していただけませんか」
「お安いご用ですよ。今この女の子に持たせますので、車の近くでお待ち下さい。誰かに何か盗まれでもするといけませんから」
女がだんだん近寄ってくるので、鴻上はそう言った。
「あ、そうですね。私、慌ててたから、鍵もかけずに、バッグを置きっぱなしで来ちゃった。じゃあ、車のところで待ってます」
女は慌てて走っていった。鴻上はほっとした。
「陽菜、悪いね、僕が柵に固定しておくから、ジャッキを持っていってあげてくれよ」
「うん、わかった」
鴻上は車の後部からジャッキを取り出すと、陽菜に渡した。
「ねえ、ジャッキアップできないから手伝ってって言われたらどうする?」
「そしたら、一旦戻っておいで。シュラフを沈めておいてから、僕がジャッキアップして、あの女の人を行かせるよ」
「それがいいわね」
陽菜は重たい工具を持って、心細そうにしている女に近寄った。女は深々と頭を下げて、陽菜を案内する。