ツェねずみ
-中里探偵事務所-
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場面71
「許して呉れもないじゃないか。お前さえあんなこしゃくな指図(さしず)をしなければ、私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。償(まど)ってお呉れ。償ってお呉れ。さあ、償ってお呉れよ。」宮沢賢治
『ツェねずみ』
鴻上幹雄がロープを柵に結びつけていると、女が遠くでまた呼んでいる。振り向くとスーツ姿の若い美人が、困ったような表情で立っていた。
「どうしました?」
「実は私たちではジャッキアップできなくて」
「それは困りましたね。僕も今手が離せないもので」
鴻上は本当に困って、顔をしかめていた。
「何をなさっているんですか。もしよろしければ私もお手伝いしましょうか」
女はまた近寄ってきた。
「いや、いいんですよ」鴻上は慌てて手で制した。「何、ただ釣りの準備をしているだけです」
「寝袋なんか、いったい何に使うんですか」
「この中に魚の好きなものが入っているんです。これを海に沈めておくとそのうちに臭いがして魚がたくさん寄ってくるんですよ」
鴻上の説明はあながち間違いではなかった。しかし、女の興味を失わせるには十分ではなかった。
「まさか女性の遺体が入っているとか?」
「ハハハハハ。あなた、面白いことを言いますね」
「別にそんなつもりはありませんよ。鴻上幹雄さん、まさかまだ女性を殺してはいないですよね? 令状をお持ちしましたので、あなたを逮捕します。応援もすぐ来ますから、逃げられませんよ」
鴻上は身構えた。
「あんた、刑事なのか」
「栃木県警の田部井です。その寝袋に入っている女性も警察官です。すぐに解放しないと公務執行妨害にも問われますよ」
「本当に応援が来るのか。サイレンの音なんかしないぞ」
田部井巡査部長は表情を変えはしなかったが、内心焦っていた。大塚優果の安全を考慮して、田部井巡査部長が現場で観察に徹し、必要になったら応援を呼ぶという手はずになっていたのだった。一般人を装った田部井巡査部長が、うまく機会をとらえて大塚優果だけ連れて、軽自動車で安全な地点まで移動してから、多数の警察車両を投入して、鴻上と根本を確保する、というのが作戦の第一案だった。
しかし、状況はよくない。大塚優果の姿は見えない。シュラフの中にいることは間違いなさそうだが、安否が確認できていない。無理に亜沙子が近づこうとすれば、鴻上が予想外の行動に出ることもありうる。もちろん亜沙子は鴻上を出し抜いて、素早くシュラフに近づくこともできるかもしれないと思った。しかし、鴻上はまったく隙を見せなかった。そこで、正面突破に切り替えた。鴻上と対決するのだ。