世界の街角から
(フランス編)

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ルーアン④
ジャンヌ・ダルクがオルレアンの戦いに向かったとき、フランスは絶望的な状況にあった。パリとルーアンはすでにイギリスに取られており、これでオルレアンまで陥落したら、フランスは滅亡という、まさに絶体絶命の状況であった。ところが、ジャンヌ・ダルクが先頭に立って進軍すると、あれよ、あれよという間に形勢が逆転していく。兵士たちが、ジャンヌの勇敢な姿に勇気づけられて、同じ兵士かと見まごうばかりの大活躍をしはじめたのだ。連戦連敗を喫していたフランス軍は、連戦連勝の猛進撃で、ついにイギリスを追い出してしまった。細かい話をすると、いろいろ複雑なのだが、大ざっぱなところ、こんな展開なのである。こうしてフランスは、現在われわれが、フランスと言えばその形を思い描く、いわゆるフランスの領土を確定することになるのであった。だから、後世の人々は、ジャンヌ・ダルクをあたかもフランスの母であるかのごとく崇拝している。ナポレオンも、ジャンヌ・ダルクを尊敬していたそうだ。そんなフランスの大恩人ジャンヌ・ダルクは、さぞかしご褒美をどっさり賜ったと思いきや、さにあらず、なんと魔女であると讒言され、宗教裁判にかけられ、火あぶりの刑に処せられてしまったのである。政治の世界には、いろいろと複雑な事情があったようだが、それにしても、ずいぶんな仕打ちではないか。ジャンヌの名誉が回復し、聖人として崇められるようになったのは、だいぶ後になってからである。
われわれは、ジャンヌがまつられている、ルーアン大聖堂に入っていった。ルーアンは、第二次世界大戦のとき、空襲で全部焼けてしまったが、このルーアン大聖堂とその正面にある建物だけは焼け残った。ちなみに、ルーアンを空襲したのは連合軍であった。なぜ連合軍がこのフランスの古都を空襲しなければならなかったのかというと、当時、ルーアンはドイツに占領されていた。つまり、ドイツをやぶるため、ルーアンを空襲したのだ。ノルマンディー上陸作戦の直前の出来事である。
ルーアン大聖堂の向かいにある建物の二階から、モネが大聖堂の絵を描いたことがあった。もちろん、第二次世界大戦のずっと前のことである。その絵はアメリカのポップアーティストにも影響を与えたそうだ。その絵とアメリカのポップアートを見比べた。私は、モネの方がいいように思った。
大聖堂を見学し、ルーアンの趣のある街を歩いた。ジャンヌ・ダルクが火あぶりになった広場には十字架が立っていた。その近くには、市場があった。チーズ、肉、魚が並んでいた。いろいろな種類のチーズに見とれていると、昼食をとることになっていたレストランに入るよう促された。鴨料理を食べた。
先ほど、唐突にモネの話がでてきたが、実はモネの家がルーアンからさほど遠くないところにある。バスで約一時間半、距離にして七十キロほどの、ジベルニーという町だ。