世界の街角から
(アメリカ編)

アメリカ旅行
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ザイオン④

 ユタ州ザイオン国立公園に到着した。岩の芸術の宝庫である。ミュージアム前の公園で昼食をとり、巨大な岩を眺めながら、バージン川に沿って歩く。子供たちは巨大な岩など見ていない。川原でじゃぶじゃぶ遊んでいる。珍しい動物もたくさん棲息しているが、残念ながら何も見なかった。ただリスだけはたくさん走っていた。
 昔この辺は浅い海だったそうである。それが今から1300万年前に3000メートル持ち上げられ、さらにバージン川に削られた。それで巨岩のそそり立つ渓谷になったというわけだ。ザイオンという名前は、エルサレムのシオンから来ている。シオンの英語読みがザイオンである。
 1300万年前に3000メートル持ち上げられたのは、ザイオンだけではない。ザイオンを含むコロラド高原が全部持ち上げられたのである。だから、あっちでもこっちでも川に削られた渓谷ができた。一番大規模で一番有名なのが、アリゾナ州にあるグランドキャニオンである。そう、ザイオンとグランドキャニオンは兄弟なのである。
 有名なものは、そこへ行くとそれだけで感動し、のちのちも思い出として深く刻まれる。聞いたことのないものは、その逆にあまり感動を覚えず、忘れやすい。私にとってザイオンは後者の方であった。2018年に2008年のアメリカ旅行を書き記していて、ザイオンの記憶はとても薄いものになっていた。はて? こんなところへ行ったっけ? かわいそうに、ザイオンは私の中でそれほど遠い記憶になっていた。1300万年前に3000メートル持ち上げられたときには、同じスタート地点に立っていたのに、グランドキャニオンとザイオンとでは、もはやこれほどの差があるのである。
 グランドキャニオン。日本人の誰もが知っている地名だ。ザイオン。日本人の誰もが耳にしたことのない地名かもしれない。有名なグランドキャニオンにはますます人が集まる。ザイオンがグランドキャニオンをしのぐことはまずないだろう。たしかにグランドキャニオンの方がザイオンより迫力の点で若干は勝るかもしれないが、ザイオンだってれっきとした大渓谷なのである。それでもネームバリューという怪物には勝てない。ネームバリューという怪物はすごいやつだ。我々は多くの場合、名前で決めてしまう。名前で買ってしまう。名前で行ってしまう。名前に負けてしまう。買っているのはそのものではなくて、名前なのである。見ているのはそのものではなくて、名前なのである。読んでいるのはそのものではなくて、名前なのである。2008年に私は、どうやらグランドキャニオンという「名前」を見てきたらしい。しかし、ザイオンには「名前」がなかったから、「見てこなかった」のである。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 世界の街角から(アメリカ編)
◆ 執筆年 2020年1月10日
◆ 群馬県立太田高等学校『図書館だより』の「閑話 世界の街角」に 2017年9月から2020年1月まで連載した紀行文である。
 ただし2019年10月から2020年1月までは諸事情により図書館のコーナー掲示となった。