芥川

3
鶯がまた鳴いた。羽ばたきの音、葉擦れの音。
貫之はまた紙をめくった。慎重に文字を追う。すうっと風が梅の香を運んできた。いや、伊勢から匂うのかもしれないと貫之は思い直した。前方に忠平、右側の物見の下に伊勢が座っていたから、貫之が見る手紙をのぞき込む伊勢は、横から読み取らねばならなかった。薄暗いせいもあって、自分から遠い位置の文字を見るときは、自然と身を乗り出すことになった。そのたびに、伊勢の衣擦れの音、手紙にこぼれた髪が紙を擦る音がした。そして、その都度、梅の香が漂った。忠平は別段身を入れて手紙を見ているふうもない。涼しい顔をしている。貫之はしかつめらしい顔をして、一文字一文字丹念に読み進めていた。伊勢も生真面目な表情で、口を一文字に結んで、熟読している。
鶯がまた鳴いた。羽ばたきの音、葉擦れの音。梅の香。衣擦れ。
最後の一枚を読み終えた貫之は、伊勢の顔を見た。伊勢はうなずいた。貫之は、手紙を元のように丁寧にまとめ、硯箱にしまった。両手で忠平に戻す。
「それで、どうでしたか」
貫之は、臆測は交えずに、簡単に答えた。
「女性との手紙のやりとりを、数年間にわたり、なさっていたようでございます。女性は名を記しておりませんので、どのような方なのかはまったくわかりません」
「この女性の名を調べられますか」
「いや、それは、少し難しいのではないでしょうか」
「もちろんこの手紙だけでは難しいでしょう。しかし、私の家には祖父が残した日記などが数多くあります。そこへの出入りをあなたに許可いたします。どこか人目に付かない仕事場も提供いたします。糺の森には、私の所有する別邸がありますから、そこを自由にお使いください。今日、あなたへの使者として働いてもらった伊勢ですが、彼女はなかなか教養があり、また、よく気が付く女性です。彼女にもこの仕事を手伝わせるつもりです」
教養があり、よく気が付く女性だと言われ、伊勢の顔は赤らんだ。
「伊勢から何か補足がありますか」
「特にありません」
「貫之様、どうかこの件を引き受けていただけないでしょうか」
貫之は黙っていた。
「何か質問があれば、何でも訊いてください」
「訊きづらいことでもかまいませんか」
「もちろんです。答えられることでしたら何でも答えます」
「それでは、単刀直入に質問させていただきますが、この件とあなた様の御一門の栄達とは、多少なりとも関係しているのでしょうか」
「さすが貫之様。鋭いご指摘ですね。目下我が藤原北家は、私の兄の時平が大納言に任命され、時流に乗っております。ですから、私は、祖父の愛した女性を調べ、それによって我が一族に輝きが増すことを期待しているという訳なのです」
貫之は、忠平がはぐらかそうとしていることはわかったが、自分がこれにどう呼応すべきかはわからなかった。藤原北家の御曹司の考えることである。きっと政界の裏の裏まで読み通した上で、今回の依頼を持ってきたはずだ。忠平。その祖父の良房。忠平の兄の時平、仲平。時平と言えば、誰もが(この方面に疎い貫之でさえ)思い浮かべるのは、政敵の菅原道真。それから、良房の愛人が書いたと思われる手紙。これらにはつながりがあるのだろうか。きっとあるだろう。そうでなければ、藤原北家の御曹司である忠平が、無名の下級貴族である紀貫之に直接対面し、丁重に依頼するはずはないのである。貫之は自分の頭が政治向きに作られていないことを恨んだ。和歌の言葉だったら、まあ、人並み以上に解きほぐせると、一応は自負しているのであるが、しかし、なぜ世間の言葉は、一向に解きほぐすことができないのであろうか。
こう言ったら、世間知らずと笑われるだろうか、ああ言ったら、無礼者と罵られるだろうか、などと思って、貫之が、訊きたいことも言い出せないでいると、忠平は、もう質問はないと受け取り、外に出た。
貫之はまた紙をめくった。慎重に文字を追う。すうっと風が梅の香を運んできた。いや、伊勢から匂うのかもしれないと貫之は思い直した。前方に忠平、右側の物見の下に伊勢が座っていたから、貫之が見る手紙をのぞき込む伊勢は、横から読み取らねばならなかった。薄暗いせいもあって、自分から遠い位置の文字を見るときは、自然と身を乗り出すことになった。そのたびに、伊勢の衣擦れの音、手紙にこぼれた髪が紙を擦る音がした。そして、その都度、梅の香が漂った。忠平は別段身を入れて手紙を見ているふうもない。涼しい顔をしている。貫之はしかつめらしい顔をして、一文字一文字丹念に読み進めていた。伊勢も生真面目な表情で、口を一文字に結んで、熟読している。
鶯がまた鳴いた。羽ばたきの音、葉擦れの音。梅の香。衣擦れ。
最後の一枚を読み終えた貫之は、伊勢の顔を見た。伊勢はうなずいた。貫之は、手紙を元のように丁寧にまとめ、硯箱にしまった。両手で忠平に戻す。
「それで、どうでしたか」
貫之は、臆測は交えずに、簡単に答えた。
「女性との手紙のやりとりを、数年間にわたり、なさっていたようでございます。女性は名を記しておりませんので、どのような方なのかはまったくわかりません」
「この女性の名を調べられますか」
「いや、それは、少し難しいのではないでしょうか」
「もちろんこの手紙だけでは難しいでしょう。しかし、私の家には祖父が残した日記などが数多くあります。そこへの出入りをあなたに許可いたします。どこか人目に付かない仕事場も提供いたします。糺の森には、私の所有する別邸がありますから、そこを自由にお使いください。今日、あなたへの使者として働いてもらった伊勢ですが、彼女はなかなか教養があり、また、よく気が付く女性です。彼女にもこの仕事を手伝わせるつもりです」
教養があり、よく気が付く女性だと言われ、伊勢の顔は赤らんだ。
「伊勢から何か補足がありますか」
「特にありません」
「貫之様、どうかこの件を引き受けていただけないでしょうか」
貫之は黙っていた。
「何か質問があれば、何でも訊いてください」
「訊きづらいことでもかまいませんか」
「もちろんです。答えられることでしたら何でも答えます」
「それでは、単刀直入に質問させていただきますが、この件とあなた様の御一門の栄達とは、多少なりとも関係しているのでしょうか」
「さすが貫之様。鋭いご指摘ですね。目下我が藤原北家は、私の兄の時平が大納言に任命され、時流に乗っております。ですから、私は、祖父の愛した女性を調べ、それによって我が一族に輝きが増すことを期待しているという訳なのです」
貫之は、忠平がはぐらかそうとしていることはわかったが、自分がこれにどう呼応すべきかはわからなかった。藤原北家の御曹司の考えることである。きっと政界の裏の裏まで読み通した上で、今回の依頼を持ってきたはずだ。忠平。その祖父の良房。忠平の兄の時平、仲平。時平と言えば、誰もが(この方面に疎い貫之でさえ)思い浮かべるのは、政敵の菅原道真。それから、良房の愛人が書いたと思われる手紙。これらにはつながりがあるのだろうか。きっとあるだろう。そうでなければ、藤原北家の御曹司である忠平が、無名の下級貴族である紀貫之に直接対面し、丁重に依頼するはずはないのである。貫之は自分の頭が政治向きに作られていないことを恨んだ。和歌の言葉だったら、まあ、人並み以上に解きほぐせると、一応は自負しているのであるが、しかし、なぜ世間の言葉は、一向に解きほぐすことができないのであろうか。
こう言ったら、世間知らずと笑われるだろうか、ああ言ったら、無礼者と罵られるだろうか、などと思って、貫之が、訊きたいことも言い出せないでいると、忠平は、もう質問はないと受け取り、外に出た。