芥川

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 いったい俺は和歌を作るのと和歌を分類するのとどっちが好きなんだろう?
 和歌を作るのは面白いし、人にそれを誉められるのは、もっと面白い。しかし、冷静になって自分の和歌をよくよく見てみると、何がいいのかわからなくなる。そんなふうに思うことがたまにあるのだ。いや、たまになどではない。最近は自分の作った和歌などは、見るのもいやになった。どこがいやなのかうまく説明はできないのだが、まあ、簡単に言えば、理屈っぽいのだ。情感とか味わいとかいうものがあまりない。あまりではなく、全然ない。だけど、人は俺の和歌がいいと言ってくれる。なぜだろう。いや、なぜなのかはわからなくもない。人は目新しいものが好きなのだ。今までないような詠み方だから、何か新しくてすごいものだと勘違いしているのだ。しかし、そう言ってもらえるのはありがたいじゃないか。人の気持ちは変わりやすい。いつ誰も見向きもしなくなる日が来るか、わかったものではない。ひいきにしてくれる人がいるうちは、せいぜい頑張って作ろうではないか。本当は、伊勢の歌みたいに、情感のこもったものの方が、ずっといいと思っている。伊勢だけではない。自然な感情が出ていて、歌っているとせつない気持ちになる和歌はどれもいい。俺はそういう和歌を書き留めておきたくて仕方ない。したいだけでなく大いにしている。だけど、俺が死に、書き残した冊子もどこかへ埋もれてしまえば、この和歌たちは、いったいどうなってしまうのだろう? たぶんこの世から消えてなくなってしまうだろう。それはとても残念なことだ。現にそんなことがすでに起こっているのではないか。万葉集のあと、中国の文化がとにかく大事だという時代が来て、日本固有の言葉とか文化というものが、ないがしろにされるようになった。それもかなりの長きにわたってだ。そのため、和歌の地位はずいぶん低いものになってしまった。その間に埋もれてしまった和歌はいったいどれくらいあるだろう? 非常にもったいない話である。しかし、これもまた変わるかもしれない。道真様が政権中枢にいるからだ。道真様は本当に思い切ったことを大胆に実行される方だ。まさか俺は、あの遣唐使をやめてしまうとは思わなかった。いや、誰も思わなかっただろう。あれは、いつのことだっただろうか。寛平七年だったかな? いや、違う。寛平五年か? いや、寛平五年は時平様が中納言におなりになった年だから、その年に、たしか道真様は参議になられたはずだ。参議になった翌年に遣唐大使におなりになったのだから、寛平六年だ。そうだ、寛平六年だ。六年に道真様は、遣唐大使になって、しかも、遣唐使を廃止したのだ。あれは、象徴的な出来事だったな。その前から世の中はだんだん国風に変わり始めてはいたけれど、やっぱりあの年に道真様が遣唐使をやめてしまわれたので、一挙に世の中の空気が変わってきたようだ。そう、たしかに少しずつ変わってきている。和歌に対する見方も大分変わってきたじゃないか。これは俺の思い込みかもしれないが、もしかすると、和歌集編纂の動きは水面下で本当にあるのかもしれないぞ。いや、思い込みじゃないかもしれない。さっき妻にも言ったが、主上がいつかたしかにそんなことをおっしゃったような気がするのだ。俺がいつの頃からか和歌の分類を始めたのは、俺の中の何かが、そういう空気を感じとったからかもしれない。それはともかく、俺は和歌を作るのと和歌を分類するのとどっちが好きなんだろう?
 貫之は牛車が止まったのにも気付かなかった。
「貫之様、到着いたしました」
 従者が御簾を上げ、朝日が貫之の顔にまともに当たった。
「うむ。では、仕事に行って参る」
 貫之は顔をしかめながら牛車を降り、行き違う人に挨拶をしながら御書所(ごしょどころ)まで歩いて行った。
 職場に着き、自席に着くと、御書所の預(あずかり)が近寄った。
「貫之殿、別当のところへ行ってくれ。何でも権大納言(ごんだいなごん)が来ているとか」
 貫之は預の顔をまともに見た。
「権大納言とは、道真様のことですか!」
「他に権大納言がいるかね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日