芥川

芥川
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 貫之は泡を食った。
 別当のところへ駈け込むと、別当が、
「委嘱状は持ってきたかい?」
と訊いた。
「あ、忘れました」
 道真はむっつりしている。
 貫之は自分の席まで走った。袋から紙包みを取り出し、また走った。別当のところへ駈け込むと、丁重にお詫びやら挨拶やらする。その頭の上へ太い声が降ってきた。
「何の、何の。そんな堅苦しい言葉は抜きだ」
 貫之が顔を上げると、むっつりしていた道真がぽんぽん軽い言葉を放っている。
「君が貫之殿か。いやあ、ずいぶん若いな。将来楽しみだ。忠平からは話を聞いてるな。忙しいところ悪いけど、よろしく頼むよ。じゃ、これで失礼するよ」
 もう立って、几帳を手で払っている。
 貫之は何も言うこともできず直立していたが、慌てて道真の後ろ姿に振り向いた。
「は」
 貫之が何の意味もなさない声を出すと、道真が振り向いた。
「あ、貫之君、悪い。申し訳ないが、席に書類入れを置いてきた。ちょっと、取ってきてくれないか」
「かしこまりました」
 貫之が道真の座っていた場所に行きかけると、別当がすばやく書類入れを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
 貫之は道真を追い掛けた。簀子(すのこ)で追い付いた。書類入れを両手で差し出すと、
「ああ、すまんすまん。助かったよ」
と言って、道真は貫之の顔も見ずに階(きざはし)を降りて行った。貫之が意外に思ったのは、道真が書類入れを受け取る際に、何か紙片のようなものを貫之の手に握らせたことだった。貫之は道真の姿が見えなくなるまで見送ると、手のひらをそっと広げてみた。

  申四つ 山崎 水無瀬院

「水無瀬院? 山崎? 申四つ?」
 貫之は思わずつぶやいた。山崎は遠い。勤務が終わってからでは、とても申四つ(午後四時半~五時頃)には間に合わない。それに、行ったとしても、今日のうちに自宅に戻ることは到底できない。まさか二晩続けて朝帰りをするわけにもいくまい。いや、今度は朝には戻れないだろう。これは、断るしかない。道真様の誘いを断るのは、何とももったいないことだが、こればかりは致し方ない。
 そんなことを考えながら自分の席に戻りかけると、別当に呼び止められた。
「貫之君、もう一回私の部屋に来てくれないか」
 貫之が入ると、
「権大納言から君に伝えるよう言われたことがあってね」
と口を切った。
「はあ」
「今朝のうちに東三条邸で業務を始めてもらいたいそうだ」
 貫之は口を開けた。しかし何も言葉が出てこなかったので、別当は続けた。
「いや、君の仕事のことなら心配はいらんよ。書類などをわかるように出しておいてくれればいいさ」
 貫之は頭の中から仕事内容を引っ張り出して、要点を説明しようとしたが、うまくいかず、別当に要領を得ないことを説明した。別当はそれをやめさせた。
「いや、急ぎの案件については、私もだいたい把握しているから、何とか君の代わりを他の者にやらせられるだろう。もし君でなきゃわからないことが出てきたら、東三条邸に人をやるよ。それより、東三条邸から迎えが来ると言ってたから、早く支度をするんだ。持っていく必要があれば、何でも持って行ってくれ」
「いえ、別に支度するまでもありません。しかし、東三条邸の仕事が終わったら、私はここへ戻って来られるのでしょうか」
「当たり前だろ。君がいなくなったら、御書所(ごしょどころ)はやっていけないからな。それは私からも権大納言によく言っておいたから安心してくれ」
「貫之様にお迎えが参りました」
 雑色(ぞうしき)の声に二人は振り向いた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日