芥川

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 車宿りに向かうまで廊を歩く貫之を梅の香りが楽しませた。貫之は春だなあと思った。
 瀟洒で由緒ある牛車が待っていた。だが、藤原家の紋ではなかった。
(菅原家の車かな?)
 貫之は立ち止まった雑色(ぞうしき)に、
「本当にこれで間違いないのか」
と訊いた。
「はい、こちらで間違いございません」
 雑色は御簾を上げた。中から梅の香が漂った。
(まさか)
 まさかであった。扇で口もとを隠しながら目を細めるのは、伊勢であった。
「貫之様。お待ちしておりましたわ」
 伊勢は、前に藤原忠平の牛車に乗っていたときと同じように、右側の物見の下に横向きに座っていた。
「まさかあなたが乗っていらっしゃるとは想像していませんでした」
 貫之は、伊勢の反対側に腰を下ろした。
「あら、私が乗っていない方がよかったかしら」
「いや、そういう意味ではなく、その反対ですよ」
 でも、なぜあなたが私と一緒の牛車に乗って、東三条殿(ひがしさんじょうどの)まで行くのでしょうか。しかも、なぜこの牛車は、菅原家――たぶん菅原家の牛車で、忠平様の牛車ではないのでしょうか。そう訊こうとした矢先に、
「今朝は、奥さまに叱られませんでしたか」
と違う方向から攻めてきた。
「妻は忠平様に夜遅くまで歌を教えていたと思っています」
 伊勢はまた目を細めて、くくっと声を立てた。
 貫之は、これはいかんと思った。
(どうして俺はいつもこうなんだろう。もっと早く気付くべきだった。)
 貫之にも口の固い従者がいる。貫之はその男に手紙を持たせるべきだったと後悔した。今さら遅いとは思ったが、しないよりはましだと思い、貫之は筆を取り出した。

吉野河岩波高く行く水のはやくぞ人を思ひそめてし

 あり合わせの畳紙(たとうがみ)に書き付け、貫之が恭しく手渡すと、伊勢はさっと見ただけで、うつむいて顔を赤らめた。
「そのかぶらの漬物うまそうだね」
「安くしとくよ」
 外の声が意外な大きさで耳を驚かせた。野菜を売る商人の小屋がずっと並んでいるのだった。
「もう七条まで来たのかな」
 七条には公営の市場がある。
「違いますわ。まだ三条あたりですよ」
「こんなところまで勝手に市場を開いているとは」
「ご存じなかったのですか」
「うちと職場の往復しかしないからな」
「貫之様のお屋敷は由緒ある一画におありですものね」
「もう古くてどうしようもないよ」
「あの一画以外は京もだんだん荒んできましたわ」
「そうだね。こんなところにまで市場があるのだからね」
「あ、できましたわ」
「ん、何が」
「ちょっとお待ちください」
 伊勢は美しい紙を広げ、何か書き始めた。

あひ見ずは恋しきこともなからまし音にぞ人を聞くべかりける

 貫之はにっこり微笑んだ。伊勢の側に移動し、そっと肩を抱いた。伊勢は貫之の肩に頭をもたせかけた。
「会わない方がよかったですか」
「意地悪」
 しばらくそうしていたが、そのうちに伊勢が貫之の顔を見上げた。
「あの、貫之様がもしこの歌を歌集にお入れになることになったら、読人しらずにしておいていただけますか」
 貫之は顔をこわばらせた。
「誤解しないで下さいね?」
 伊勢が赤くなった。貫之は破顔した。
「読人しらずにいたしますよ」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日