芥川

芥川
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12

 物を焼く匂いがしてきた。とてもいい匂いである。
「あら、何の匂いかしら」
「芋か何かでしょう」
 市場の界隈は何となく気持ちが浮き立ってくる。
 貫之は伊勢に気を取られて現実からしばらく離れていたことにやっと気付いた。気付いたと同時に、血相を変えて伊勢の顔を見た。
「そう言えばこの車はなぜ南に向かっているのでしょうか。東三条殿(ひがしさんじょうどの)は宮中の東にあるのですよ」
「あら、山崎に行くことを貫之様はお聞きになっていらっしゃらなかったのですか。先ほど『もう七条まで来たのかな』とおっしゃっていたから、てっきりお聞きになっているとばかり思っていました」
「うーむ、先ほどは市場と言えば七条とつい連想してしまい、あまり不思議に思っておりませんでした」
「おかしい方」
 貫之は懐をまさぐった。そして、伊勢の目の前に紙片を広げて見せた。

  申四つ 山崎 水無瀬院

「これは?」
「実は先ほど御書所(ごしょどころ)に突然権大納言(ごんだいなごん)が見えて、私にこっそりこの紙を渡したのです」
「じゃあ、山崎に向かうことはご存知だったのではありませんか」
「いや、それが違うのです」
「何だかさっぱり伊勢にはわかりませんわ」
「私は仕事が終わってから、申四つに山崎に行くのは無理だと思ったのです」
「それはそうよね」
「それに別当にすぐ東三条殿に行って、業務に取り掛かるよう言われたんですよ」
「それではますます山崎には行かれませんわね」
「それも私をすぐ東三条殿に行くよう別当に命じたのは権大納言なのですよ」
 伊勢はまっすぐ貫之を見ていた。
「おかしくないですか」
「何がですか」
 伊勢は首をかしげた。
「だって、そうじゃありませんか。権大納言は別当に私を東三条殿に行かせるように命じて、私には山崎に行くように命じたのですよ。もう私にはさっぱりわけがわかりません」
「そのことなら伊勢にもわかりますわ」
 貫之は目を見張った。
「どういうことですか」
「貫之様と山崎で会うことを権大納言様は人に知られたくないのです。いえ、貫之様と会うのを人に知られないように、こっそり山崎にお誘いしたのだと思います」
「それはいったいなぜですか」
「さあ、それは伊勢にもわかりませんわ」
「それではなぜあなたは山崎に行くのですか」
「私も権大納言様に言われたのです」
「どこでそれを?」
「それはもちろん中宮様の御前(おまえ)ですわ」
「あなたは中宮温子(おんし)様にお仕えだったのですね」
「本当に貫之様は世間のことに疎いのですね」
「面目ない」
「いいんですよ。人それぞれ向き不向きがありますからね」
 伊勢はしばらく中宮の話をした。中宮は美しく、優しい方であること、院も主上も立派な方であること、院と主上が厚く信頼している権大納言も中宮の御前にはよく挨拶に来ること、中宮のご兄弟の時平、仲平、忠平も、よく遊びに来ること、権大納言はその中でも、一番聡明な忠平をとてもかわいがっていることなど、貫之の暗い分野の知識が一気に入ってきた。
「驚きました。やはり中宮様の御前にいらっしゃる方は、雲の上のことを何でもご存知なんですね」
 伊勢はまた目を細めて笑った。
「貫之様、このぐらいのことなら、世間の人は誰でも知っていらっしゃいますよ」
「そうなんですか!」
 貫之は、このところ言葉の世界に浸り切っていたことが、さすがに少し不安に感じられてきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日