芥川

13
(やはり船はいい。)
風の吹く方向に顔を向けながら、貫之は波を見ていた。右の腕と足が温かい。伊勢が衣にくるまっているのだ。
(京都はいい。川が多くて、船でどこへでもいける。牛車より船の方がいい。)
鴨川尻(かもがわじり)で船に乗り、もうすぐ山崎だった。
寝ていると思った伊勢が袿(うちき)から顔を出した。
「石清水(いわしみず)ですわ」
「あれが」
伊勢は貫之を振り向いた。
「あら、貫之様はいらっしゃったことがありませんか」
「あなたは」
「ええ、家族で」
「いつ」
「ほんの子どものころですわ」
「それはうらやましいことです。私もいつか行ってみたいものです」
「では、明日、京に帰る途中に寄りましょう」
貫之は伊勢の顔を見た。
「それはいいですね」
「じゃあ、約束よ」
貫之がうなずくと伊勢はうれしそうに水面(みなも)を見た。貫之は伊勢の横顔を見た。水面に雪が舞い降りた。
「寒いと思ったら雪か」
「あら、梅の花が舞っているのよ」
貫之はもう一度よく見てみた。伊勢の言うことが正しいようだった。しばらく黙っていた貫之は歌を口ずさんだ。
今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや
「貫之様は本当に詠むのが早いですね」
「いえ、これは在原業平の歌です」
「あら、そうなの。でも、いい歌ね」
「今日ここへ来なければ、この雪の降るように舞う梅の花は見られませんでしたね。仮にずっと梅の花が咲いていたとしても、私たちがここへ来なければ、私たちの花として見ることはできませんでしたね」
「あら、こう解釈することもできますわ。今日あなたが私に逢わなければ、私はあなたに逢えないまま、白髪頭のおばあさんになってしまったでしょう。もしも私が永遠に今の若い伊勢でいられたとしても、あなたがここへ来なければ、私はあなたの伊勢にはならなかったでしょうね」
「本当ですね。私はあなたにお目にかかれて幸せです」
「私もです」
貫之は伊勢を引き寄せた。伊勢は頭を貫之の肩に置いたままじっとしていた。しばらくすると、伊勢は顔を上げた。
「こうして船に乗って川に浮かんでいると、いろいろなことが思い浮かんできます」
「どんなことですか」
伊勢は恥ずかしそうに言った。
「笑わないで下さいね」
「笑いませんよ」
「私は小さいころに、よく物語を作ったんですけど、その中にこんなのがありました」
「どんなのですか」
「宇治に住む女が、恋人の本心がわからず、恋に疲れて、川に身を投げると、船に助けられるんです。船にはちょうどお坊さんが乗っていて、女に事情を訊くのです。女の事情を知ったお坊さんが、出家を勧めると、女は尼になってしまいます。女の恋人は、ちょうどそのとき女の家に行き、女が行方不明になったことを知りました。男は探し歩くうちに、人々から、女が川に身を投げたらしいと聞きます。男は絶望して、川に身を投げることによって、女と添い遂げようと思い、川に飛び込みます。男の亡骸(なきがら)が岸に打ち上げられて、人々は騒ぎ、寺にいる女の耳にも入ります。よもやと思った女は岸辺まで見に行き、それが恋人だと知り、嘆きます。男の書き残した手紙を読んで、男の本心を知ると、何もかも手遅れだと思い、また川に飛び込みます。そうして、男の女と添い遂げようという思いは果たされたのでした」
貫之はじっと耳を澄まして聞いていた。波の音と櫂の音が伊勢の声に混じるのを聞くのは、とても心地よかった。
「そんなふうに皇女(みこ)の方々にお聞かせするのですね。とてもすばらしいですねえ」
風の吹く方向に顔を向けながら、貫之は波を見ていた。右の腕と足が温かい。伊勢が衣にくるまっているのだ。
(京都はいい。川が多くて、船でどこへでもいける。牛車より船の方がいい。)
鴨川尻(かもがわじり)で船に乗り、もうすぐ山崎だった。
寝ていると思った伊勢が袿(うちき)から顔を出した。
「石清水(いわしみず)ですわ」
「あれが」
伊勢は貫之を振り向いた。
「あら、貫之様はいらっしゃったことがありませんか」
「あなたは」
「ええ、家族で」
「いつ」
「ほんの子どものころですわ」
「それはうらやましいことです。私もいつか行ってみたいものです」
「では、明日、京に帰る途中に寄りましょう」
貫之は伊勢の顔を見た。
「それはいいですね」
「じゃあ、約束よ」
貫之がうなずくと伊勢はうれしそうに水面(みなも)を見た。貫之は伊勢の横顔を見た。水面に雪が舞い降りた。
「寒いと思ったら雪か」
「あら、梅の花が舞っているのよ」
貫之はもう一度よく見てみた。伊勢の言うことが正しいようだった。しばらく黙っていた貫之は歌を口ずさんだ。
今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや
「貫之様は本当に詠むのが早いですね」
「いえ、これは在原業平の歌です」
「あら、そうなの。でも、いい歌ね」
「今日ここへ来なければ、この雪の降るように舞う梅の花は見られませんでしたね。仮にずっと梅の花が咲いていたとしても、私たちがここへ来なければ、私たちの花として見ることはできませんでしたね」
「あら、こう解釈することもできますわ。今日あなたが私に逢わなければ、私はあなたに逢えないまま、白髪頭のおばあさんになってしまったでしょう。もしも私が永遠に今の若い伊勢でいられたとしても、あなたがここへ来なければ、私はあなたの伊勢にはならなかったでしょうね」
「本当ですね。私はあなたにお目にかかれて幸せです」
「私もです」
貫之は伊勢を引き寄せた。伊勢は頭を貫之の肩に置いたままじっとしていた。しばらくすると、伊勢は顔を上げた。
「こうして船に乗って川に浮かんでいると、いろいろなことが思い浮かんできます」
「どんなことですか」
伊勢は恥ずかしそうに言った。
「笑わないで下さいね」
「笑いませんよ」
「私は小さいころに、よく物語を作ったんですけど、その中にこんなのがありました」
「どんなのですか」
「宇治に住む女が、恋人の本心がわからず、恋に疲れて、川に身を投げると、船に助けられるんです。船にはちょうどお坊さんが乗っていて、女に事情を訊くのです。女の事情を知ったお坊さんが、出家を勧めると、女は尼になってしまいます。女の恋人は、ちょうどそのとき女の家に行き、女が行方不明になったことを知りました。男は探し歩くうちに、人々から、女が川に身を投げたらしいと聞きます。男は絶望して、川に身を投げることによって、女と添い遂げようと思い、川に飛び込みます。男の亡骸(なきがら)が岸に打ち上げられて、人々は騒ぎ、寺にいる女の耳にも入ります。よもやと思った女は岸辺まで見に行き、それが恋人だと知り、嘆きます。男の書き残した手紙を読んで、男の本心を知ると、何もかも手遅れだと思い、また川に飛び込みます。そうして、男の女と添い遂げようという思いは果たされたのでした」
貫之はじっと耳を澄まして聞いていた。波の音と櫂の音が伊勢の声に混じるのを聞くのは、とても心地よかった。
「そんなふうに皇女(みこ)の方々にお聞かせするのですね。とてもすばらしいですねえ」