芥川

芥川
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14

 また冷たい風が水上を駆け抜け、梅の木々を揺らした。次の瞬間、白い花弁が一斉に舞い降りる。
「皇女(みこ)の方々ばかりではないんですよ。よくわかりませんが、私の話を聞きたがる姫君が多くて、あちらこちらに出掛けては、物語をしているんですよ」
 貫之は雪のように水面に落ちる梅の花を見ながら、伊勢の柔らかい声が耳に入るのを愉しんでいた。伊勢の声を聞いているのを、誰もが求めるのだろうな。そんなことを思いながら。
「波にきらきら日が当たって、まるで真珠みたいですわ。私の父が昔伊勢守(いせのかみ)をしていたころ、海で獲れる真珠をいただいたのです。それはもう美しくて、今でも私の大切な宝物ですわ」
 貫之は気持ちがよくて返事をすることもできず、目を閉じてうなずくだけだった。そのうちに貫之の頭の中に、真珠から連想した空想話が湧いてきて、伊勢の言う言葉にうなずくこともできず、じっと目を閉じていた。
「貫之様!」
 貫之の空想は破られた。貫之は目を大きく開いて、伊勢の顔を見た。
「貫之様ったら、私がつまらない話ばかりするから、寝てしまわれたのですか」
「いや、すみませんでした。あなたの話を聞いているうちに、頭の中におかしな話がわき起こってしまったもので、ついその話をふくらませるのに夢中になってしまいました」
「え? 貫之様も物語をお作りになるのですか」
「いや、私は頭の中で作るだけで、実際に書いたことはありませんよ」
「なぜですか。貫之様のような、人の意表を突く歌をお詠みになる方だったら、人が読みたがる物語がたくさんおできになるでしょうから、絶対書いた方がいいですよ」
 懸命にそう言う伊勢の顔つきが急に子どもっぽくなった。貫之は不思議だった。大人っぽく賢い伊勢に、このような子どもらしい部分があることが。
「人の意表を突く歌との評は、意外でしたね。私の歌はそんなふうに受け取られているのですね」
「あ、すみません。変な意味ではありませんよ。私にはとても思いつかないので、とても尊敬しているんです」
 伊勢は顔を赤くして一生懸命説明している。
「ですから、ぜひ貫之様が今お思い付きになった物語を聞かせていただけませんか」
「わかりました。そこまで言われたら、断るわけには参りませんね」
「ああ、よかった」
「でも、本当にたいした話ではありませんよ」
「どんな話でも結構ですわ。貫之様が話してくださるんですから」
 貫之はしばらく黙って、先ほどの物語を頭の中で整理した。波を見る。たしかに伊勢の言うとおり、日光が反射して、真珠がキラキラ光っているように見える。
「昔、男がいました。その男はとても自分の手には入らないような女に恋をしました」
 貫之の心の中に思い浮かんでいるのはもちろん伊勢だった。
「女の親に反対されたので、ある夕方男は女を連れて逃げました。都の外れまで行くと大きな川がありました。ちょうど船が出るところだったので、二人は飛び乗りました。川の名前は芥川と言いました」
「芥川? もっときれいな名前がいいのに」
「それじゃ、面白くないですよ。意表を突く名前がいいのです」
「たしかに意表は突くわね。ふふ」
「二人は芥川をどこまでもどこまでも下って行きました。夜になると、岸辺に生い茂った草にたくさん露が付き、そこに月の光がキラキラと輝きました。あれは、何? 真珠かしら。そう女は訊きました。露を見たことがなかったからです」
「ふふ、ずいぶんお姫様育ちね。私とは大違い」
「いえ、あなたも立派なお姫様ですよ」
「違いますよ。さあ、それからどうなるのです?」
「そのうちにお姫様は疲れて寝込んでしまいました」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日