芥川

16
あたりは暗くなり、波頭にきらきら光る水しぶきも見えなくなっていた。
「白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを、か」
伊勢はそれを覚えるためか、目をつぶって、繰り返し、繰り返し、口ずさんでいる。
「貫之様」
「はい」
「貫之様の頭の中はどうなっているのかしら」
「はい?」
「本当によくそんなにたくさんのことをこんな短い歌の中に盛り込めるわね」
作るとそうなるのだから仕方ない。そうならないようにするにはどうすればよいのかということの方がわからない。
そう言うと伊勢は、
「やはり才能なのね」
と感慨深そうに言った。
「あーあ、私も貫之様のような歌が詠めるようになりたい」
貫之が何か言おうとすると、船頭が大きな声を張り上げた。
「水無瀬、水無瀬、降りる方は準備下され」
船は広い港に入った。ちょうど港を出る船があった。何人かの人たちが衣(きぬ)にくるまってうつむいていた。
桟橋に降りると、声を掛けられた。権大納言の家の者だった。上り坂を歩いて程なくすると、新しい建物が見えてきた。広壮で典雅であった。
中に通されると、木の香りが新しかった。廂(ひさし)と母屋(もや)を一続きにして、膳が整然と並べられていた。そこに四、五人がすでに座っていた。
「貫之君、よく来てくれた。伊勢、船では貫之君に襲われなかったかね」
権大納言が上機嫌になっていた。すでに酒が入っているらしい。
「貫之様は紳士で頭のいい方ですから、そんなことはなさいませんわ」
貫之はかしこまっていた。
「素敵な物語も作って下さったわ」
「ほう。それはどんな物語なのかね」
「いえ、私は思い付きを適当に並べただけで、それを味わい深い物語に仕立て上げたのは伊勢殿です」
「芥川という題ですわ。これは貫之様が付けて下さったのです」
「それは是非聞きたいな。伊勢、ちょっとやってくれないか」
そんなやりとりをしながらも、挨拶や自己紹介を終え、席について、酒を手にしていた。
伊勢は請われるままに「芥川」を話した。
「伊勢の話はいつも面白いですねえ」
美しい少年だった。いかにも賢そうな目をまっすぐ伊勢に向けている。
「あなたは伊勢の話を聞いたことがあるのですか」
「はい、父上、弘徽殿で主上と一緒に聞いたことがあります」
父上と呼ばれたのは宇多上皇である。この美しく聡明な少年は、宇多上皇の第四皇子の敦慶(あつよし)親王である。弘徽殿とは宇多上皇の女御(現在は皇太夫人(こうたいふじん))である藤原温子(おんし)が後宮で住まいとしている殿舎の名称、主上とは宇多上皇の第一皇子で昨年の寛平九年に即位した醍醐天皇である。敦慶親王は、まだ父が譲位する前、したがって兄が即位する前、そしてそれはすなわち温子が女御であったころに、弘徽殿で、温子の女房として仕えていた(もちろん今も仕えている)伊勢が、物語を聞かせてくれたと言うのである。
「ほう、伊勢、どんな話ですか」
宇多上皇は伊勢の方を見た。
「さて、いろいろな物語をいたしましたからねえ。どんな物語かしら」
伊勢が困っていると敦慶親王は聡明な瞳を輝かして、その物語を再現してみせた。
「いろいろな物語があったと思うのですが、その中でも特に印象深かったのが、幼なじみの男女が大きくなって互いに結婚したいと思ってもなかなか言い出せないうちに、女の親が他の男と夫婦にさせようとしたという話です」
「ああ、筒井筒の話ですわね」
「それは私も聞いたことがあるな」
宇多上皇がそう言うと権大納言の菅原道真もうなずいた。
「私もどこかで聞きましてございます」
「白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを、か」
伊勢はそれを覚えるためか、目をつぶって、繰り返し、繰り返し、口ずさんでいる。
「貫之様」
「はい」
「貫之様の頭の中はどうなっているのかしら」
「はい?」
「本当によくそんなにたくさんのことをこんな短い歌の中に盛り込めるわね」
作るとそうなるのだから仕方ない。そうならないようにするにはどうすればよいのかということの方がわからない。
そう言うと伊勢は、
「やはり才能なのね」
と感慨深そうに言った。
「あーあ、私も貫之様のような歌が詠めるようになりたい」
貫之が何か言おうとすると、船頭が大きな声を張り上げた。
「水無瀬、水無瀬、降りる方は準備下され」
船は広い港に入った。ちょうど港を出る船があった。何人かの人たちが衣(きぬ)にくるまってうつむいていた。
桟橋に降りると、声を掛けられた。権大納言の家の者だった。上り坂を歩いて程なくすると、新しい建物が見えてきた。広壮で典雅であった。
中に通されると、木の香りが新しかった。廂(ひさし)と母屋(もや)を一続きにして、膳が整然と並べられていた。そこに四、五人がすでに座っていた。
「貫之君、よく来てくれた。伊勢、船では貫之君に襲われなかったかね」
権大納言が上機嫌になっていた。すでに酒が入っているらしい。
「貫之様は紳士で頭のいい方ですから、そんなことはなさいませんわ」
貫之はかしこまっていた。
「素敵な物語も作って下さったわ」
「ほう。それはどんな物語なのかね」
「いえ、私は思い付きを適当に並べただけで、それを味わい深い物語に仕立て上げたのは伊勢殿です」
「芥川という題ですわ。これは貫之様が付けて下さったのです」
「それは是非聞きたいな。伊勢、ちょっとやってくれないか」
そんなやりとりをしながらも、挨拶や自己紹介を終え、席について、酒を手にしていた。
伊勢は請われるままに「芥川」を話した。
「伊勢の話はいつも面白いですねえ」
美しい少年だった。いかにも賢そうな目をまっすぐ伊勢に向けている。
「あなたは伊勢の話を聞いたことがあるのですか」
「はい、父上、弘徽殿で主上と一緒に聞いたことがあります」
父上と呼ばれたのは宇多上皇である。この美しく聡明な少年は、宇多上皇の第四皇子の敦慶(あつよし)親王である。弘徽殿とは宇多上皇の女御(現在は皇太夫人(こうたいふじん))である藤原温子(おんし)が後宮で住まいとしている殿舎の名称、主上とは宇多上皇の第一皇子で昨年の寛平九年に即位した醍醐天皇である。敦慶親王は、まだ父が譲位する前、したがって兄が即位する前、そしてそれはすなわち温子が女御であったころに、弘徽殿で、温子の女房として仕えていた(もちろん今も仕えている)伊勢が、物語を聞かせてくれたと言うのである。
「ほう、伊勢、どんな話ですか」
宇多上皇は伊勢の方を見た。
「さて、いろいろな物語をいたしましたからねえ。どんな物語かしら」
伊勢が困っていると敦慶親王は聡明な瞳を輝かして、その物語を再現してみせた。
「いろいろな物語があったと思うのですが、その中でも特に印象深かったのが、幼なじみの男女が大きくなって互いに結婚したいと思ってもなかなか言い出せないうちに、女の親が他の男と夫婦にさせようとしたという話です」
「ああ、筒井筒の話ですわね」
「それは私も聞いたことがあるな」
宇多上皇がそう言うと権大納言の菅原道真もうなずいた。
「私もどこかで聞きましてございます」