芥川

17
炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)の炭がぱちぱち音を立て、魚を焼いたよい匂いが漂っていた。
「どうだろうか、伊勢の物語を草子にして、子女の教育に当たる女房たちに配るのは」
「それはいい考えでございます。是非実施いたしましょう」
「誰か草子を作るのに適任の者はいないだろうか」
「どうでしょう。ここにいる貫之君などは、文章の才があり、また和歌の達人ですから、これ以上ない適任者かと存じますが」
「それはいいな。貫之殿、どうかね」
貫之は予想外の展開に驚くばかりで、何とも返答のしようがなかった。
「ハッ、それはまたとない光栄と存じます。しかし、物語の生みの親のご意向を伺わないうちは、私には何とも判断しかねる次第であります」
宇多上皇は貫之の隣の伊勢に目を移した。
「伊勢、貫之殿はこう言っているが、あなたはどう思う」
伊勢は貫之以上に驚き、顔を赤らめていた。
「何とももったいないことで、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げた。
宇多上皇は権大納言菅原道真を見た。
「しかし、私が命じたとなると、話が大げさになっていけないだろうな」
「いかがでございましょう。東三条邸所有文書取調役として貫之君が助手の伊勢と業務に当たっているうちに、伊勢から物語を聞き、それを草子に仕立てたということにしては」
「おう、それはよいな。それでは、そういうことにしよう。貫之殿、どうかね」
貫之は深々と頭を下げた。
「御意の通りにいたします」
「ところで、忠平殿、あなたは貫之殿がやりやすいような仕事場を用意したのかね」
藤原忠平は昨日と変わっていなかった。明るく、気さくで、慎み深かった。
「はい。糺(ただす)の森にある私の別院を使っていただいております。もちろん東三条殿(ひがしさんじょうどの)にも自由に出入りできます。しかし、別院の方が気楽にお仕事ができると思いまして」
「さすが忠平殿は気が利くな」
「ありがとうございます」
「では、貫之殿は、別院で伊勢と二人だけで過ごせるのか。これはちとうらやましいな」
伊勢はまた顔を赤らめた。貫之はかしこまっている。
「ところで、貫之殿、実はあなたにもう一つお願いがあるのだ」
「ハッ、どのようなことでございましょう」
「その前に訊くが、貫之殿は、『万葉集』をどう思う」
「歌人が最も範とすべき前代未聞の大歌集でございます」
「あのあとにこれといった歌集ができなかったのは、どう考える」
「大変残念なことではありましたが、時代状況的にはやむを得なかった面もあったのではないかと考えております」
「それはどういうことか」
「つまり、奈良の都では、中国の文化が重んじられ、それは京都でも基本的に変わりはありませんでした。もちろんさまざまな点で我が国が成長するためには致し方ないことだったわけではあります。したがって、人々が重視してきたのは漢詩であり、和歌は長い間不遇を託つ運命にあったと思われます」
「ふむ、そうだな。道真殿などはさしずめ漢詩崇拝・和歌虐待者の筆頭だな」
「何をおっしゃいますか、遣唐使を廃したこの私に」
「冗談だ」
「実はな、道真殿も申しておるのだが、そろそろ国風文化を盛んにするために、和歌集を編纂するのはどうかと思っておるのだ。貫之殿はどう考える」
「そのことに関しましては主上からもお伺いしたことがあったように記憶しております」
「主上は何とおっしゃっていた」
「今年の朝賀(ちょうが)のあとの節会(せちえ)の際に、恐れ多くも私のところまで足をお運びになり、そのうちに歌集を作りたいから手を貸してくれるかとの仰せでした」
「ハハハ、それは私が言わせたのだよ」
「どうだろうか、伊勢の物語を草子にして、子女の教育に当たる女房たちに配るのは」
「それはいい考えでございます。是非実施いたしましょう」
「誰か草子を作るのに適任の者はいないだろうか」
「どうでしょう。ここにいる貫之君などは、文章の才があり、また和歌の達人ですから、これ以上ない適任者かと存じますが」
「それはいいな。貫之殿、どうかね」
貫之は予想外の展開に驚くばかりで、何とも返答のしようがなかった。
「ハッ、それはまたとない光栄と存じます。しかし、物語の生みの親のご意向を伺わないうちは、私には何とも判断しかねる次第であります」
宇多上皇は貫之の隣の伊勢に目を移した。
「伊勢、貫之殿はこう言っているが、あなたはどう思う」
伊勢は貫之以上に驚き、顔を赤らめていた。
「何とももったいないことで、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げた。
宇多上皇は権大納言菅原道真を見た。
「しかし、私が命じたとなると、話が大げさになっていけないだろうな」
「いかがでございましょう。東三条邸所有文書取調役として貫之君が助手の伊勢と業務に当たっているうちに、伊勢から物語を聞き、それを草子に仕立てたということにしては」
「おう、それはよいな。それでは、そういうことにしよう。貫之殿、どうかね」
貫之は深々と頭を下げた。
「御意の通りにいたします」
「ところで、忠平殿、あなたは貫之殿がやりやすいような仕事場を用意したのかね」
藤原忠平は昨日と変わっていなかった。明るく、気さくで、慎み深かった。
「はい。糺(ただす)の森にある私の別院を使っていただいております。もちろん東三条殿(ひがしさんじょうどの)にも自由に出入りできます。しかし、別院の方が気楽にお仕事ができると思いまして」
「さすが忠平殿は気が利くな」
「ありがとうございます」
「では、貫之殿は、別院で伊勢と二人だけで過ごせるのか。これはちとうらやましいな」
伊勢はまた顔を赤らめた。貫之はかしこまっている。
「ところで、貫之殿、実はあなたにもう一つお願いがあるのだ」
「ハッ、どのようなことでございましょう」
「その前に訊くが、貫之殿は、『万葉集』をどう思う」
「歌人が最も範とすべき前代未聞の大歌集でございます」
「あのあとにこれといった歌集ができなかったのは、どう考える」
「大変残念なことではありましたが、時代状況的にはやむを得なかった面もあったのではないかと考えております」
「それはどういうことか」
「つまり、奈良の都では、中国の文化が重んじられ、それは京都でも基本的に変わりはありませんでした。もちろんさまざまな点で我が国が成長するためには致し方ないことだったわけではあります。したがって、人々が重視してきたのは漢詩であり、和歌は長い間不遇を託つ運命にあったと思われます」
「ふむ、そうだな。道真殿などはさしずめ漢詩崇拝・和歌虐待者の筆頭だな」
「何をおっしゃいますか、遣唐使を廃したこの私に」
「冗談だ」
「実はな、道真殿も申しておるのだが、そろそろ国風文化を盛んにするために、和歌集を編纂するのはどうかと思っておるのだ。貫之殿はどう考える」
「そのことに関しましては主上からもお伺いしたことがあったように記憶しております」
「主上は何とおっしゃっていた」
「今年の朝賀(ちょうが)のあとの節会(せちえ)の際に、恐れ多くも私のところまで足をお運びになり、そのうちに歌集を作りたいから手を貸してくれるかとの仰せでした」
「ハハハ、それは私が言わせたのだよ」