芥川

20
寒い空の上に月が白々と輝いていた。道真と躬恒(みつね)はご機嫌だった。貫之は考えていた。
(昨日糺(ただす)の森に行く前にすべては決まっていたのだ。あとは俺を収めるべきところに収めるため、上皇が今日の宴を催したのだ。まだ公にしたくないから忠平様の私用という形を取った。忠平様から和歌集編纂の話を持ち掛けるのは妙だから東三条殿(ひがしさんじょうどの)の書庫の整理という形をとった。俺が引き受けないと困るから伊勢を出しに使った。危ないところだった。伊勢に本当に恋をするところだった。伊勢は上皇がどうにでも使える女だった。しかし、こんな手の込んだことをしなくても、直接俺に頼めばよかったではないか。なぜそうしなかったのだろう。あるいは編集候補者全員を呼び出して話を持ち掛ければよかったではないか。なぜそうしなかったのだろう)
川の方から風が吹いた。身を切るように寒い。
(上皇がみんなの考えを訊けば、みんなは友則殿か躬恒殿か、俺より年配の者を推薦しただろう。そうすると上皇は俺にしたいとは言いづらくなる。また、俺に初めに話をして、責任者にしたあとで、みんなに話をすると、みんなあまり愉快な気持ちではないだろう。編集者を辞退する者も出るかもしれない。そこで、上皇は、各人から編集者になる約束を取り付けておいてから、編集長を俺にしたいと切り出したのではないか。で、めぼしい者たちを先に固めてしまう。だが、せっかくそこまでいったあとで、俺に断られたら困る。それで伊勢を使ったのだ。伊勢は危ない。これからは慎重に接しよう。躬恒殿にも気を付けねば。上皇には俺が編集責任者に最も適任だと言っていたが、心の中はどうだかわからない。年は俺より十五も上だ。歌も相当できる。責任者になりたくないはずはなかろう。あの連歌は危なかった。下の句ができないと思った。できなかったら躬恒殿は何と言っただろうか。しかし、かえってできない方がよかったかもしれないぞ。躬恒殿さえその気であれば、編集責任者をやってくれた方がこちらも気が楽である。だが、下の句はできてしまった。上皇が言うとおりこれは神の思し召しかもしれない)
歩きながらそんなふうにあれこれ考え、また伊勢に戻っていった。
(伊勢はどう思っているのだろう。上皇のお気に入りなのかもしれないが、忠平様の別院で仕事をするうちに、また伊勢と話に興じることもあるかもしれない。しかし、上皇のお気に入りの女房をあまり思い詰めると困ったことになるだろうな)
貫之は肩をつかまれ我に返った。
「貫之君、さっきからぼんやりしているが、女のことでも考えているのかい」
道真は酒臭い息を貫之に吐いた。
「いえ、和歌集のことを考えておりました」
「そんなのはあとで考えればいいさ。せっかく山崎に来たんだから、少しは羽を伸ばそうじゃないか」
「はい」
夜もすっかり更けているというのに、港の辺りはあちこちで篝火(かがりび)が焚かれ、昼のようだった。貴賤を問わず、掘っ立て小屋のような建物で酒を酌み交わしていた。そのうちの一軒のそれなりに様子のいい店に道真は貫之の袖を引いて入っていった。
「あら大納言様、お待ち申しておりました。いつもご贔屓(ひいき)にありがとうございます」
年配の女が愛想よく挨拶した。
「さ、こちらへ」
廊の奥へ案内され、突き当たりで曲がり、また突き当たりで曲がったところに、小さな部屋があった。
「今日はお泊まりですか」
「うん、今日は大いに盛り上がるぞ」
「まあ、相変わらずお元気な方ですね」
道真と貫之と躬恒が座に着くと、若い女が三人寄ってきた。
「大納言様、本当にお久しぶりですこと。私のことなどお忘れになったかと思いましたわ」
「忘れるわけないだろ。美野(みの)。仕事がどうにも忙しくてな」
美野と呼ばれた女は道真にすり寄った。
貫之の隣に座った女も何か言いながらすり寄ってきた。貫之は何も言わず酒をあおった。
(昨日糺(ただす)の森に行く前にすべては決まっていたのだ。あとは俺を収めるべきところに収めるため、上皇が今日の宴を催したのだ。まだ公にしたくないから忠平様の私用という形を取った。忠平様から和歌集編纂の話を持ち掛けるのは妙だから東三条殿(ひがしさんじょうどの)の書庫の整理という形をとった。俺が引き受けないと困るから伊勢を出しに使った。危ないところだった。伊勢に本当に恋をするところだった。伊勢は上皇がどうにでも使える女だった。しかし、こんな手の込んだことをしなくても、直接俺に頼めばよかったではないか。なぜそうしなかったのだろう。あるいは編集候補者全員を呼び出して話を持ち掛ければよかったではないか。なぜそうしなかったのだろう)
川の方から風が吹いた。身を切るように寒い。
(上皇がみんなの考えを訊けば、みんなは友則殿か躬恒殿か、俺より年配の者を推薦しただろう。そうすると上皇は俺にしたいとは言いづらくなる。また、俺に初めに話をして、責任者にしたあとで、みんなに話をすると、みんなあまり愉快な気持ちではないだろう。編集者を辞退する者も出るかもしれない。そこで、上皇は、各人から編集者になる約束を取り付けておいてから、編集長を俺にしたいと切り出したのではないか。で、めぼしい者たちを先に固めてしまう。だが、せっかくそこまでいったあとで、俺に断られたら困る。それで伊勢を使ったのだ。伊勢は危ない。これからは慎重に接しよう。躬恒殿にも気を付けねば。上皇には俺が編集責任者に最も適任だと言っていたが、心の中はどうだかわからない。年は俺より十五も上だ。歌も相当できる。責任者になりたくないはずはなかろう。あの連歌は危なかった。下の句ができないと思った。できなかったら躬恒殿は何と言っただろうか。しかし、かえってできない方がよかったかもしれないぞ。躬恒殿さえその気であれば、編集責任者をやってくれた方がこちらも気が楽である。だが、下の句はできてしまった。上皇が言うとおりこれは神の思し召しかもしれない)
歩きながらそんなふうにあれこれ考え、また伊勢に戻っていった。
(伊勢はどう思っているのだろう。上皇のお気に入りなのかもしれないが、忠平様の別院で仕事をするうちに、また伊勢と話に興じることもあるかもしれない。しかし、上皇のお気に入りの女房をあまり思い詰めると困ったことになるだろうな)
貫之は肩をつかまれ我に返った。
「貫之君、さっきからぼんやりしているが、女のことでも考えているのかい」
道真は酒臭い息を貫之に吐いた。
「いえ、和歌集のことを考えておりました」
「そんなのはあとで考えればいいさ。せっかく山崎に来たんだから、少しは羽を伸ばそうじゃないか」
「はい」
夜もすっかり更けているというのに、港の辺りはあちこちで篝火(かがりび)が焚かれ、昼のようだった。貴賤を問わず、掘っ立て小屋のような建物で酒を酌み交わしていた。そのうちの一軒のそれなりに様子のいい店に道真は貫之の袖を引いて入っていった。
「あら大納言様、お待ち申しておりました。いつもご贔屓(ひいき)にありがとうございます」
年配の女が愛想よく挨拶した。
「さ、こちらへ」
廊の奥へ案内され、突き当たりで曲がり、また突き当たりで曲がったところに、小さな部屋があった。
「今日はお泊まりですか」
「うん、今日は大いに盛り上がるぞ」
「まあ、相変わらずお元気な方ですね」
道真と貫之と躬恒が座に着くと、若い女が三人寄ってきた。
「大納言様、本当にお久しぶりですこと。私のことなどお忘れになったかと思いましたわ」
「忘れるわけないだろ。美野(みの)。仕事がどうにも忙しくてな」
美野と呼ばれた女は道真にすり寄った。
貫之の隣に座った女も何か言いながらすり寄ってきた。貫之は何も言わず酒をあおった。