芥川

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22

 はやり歌を口ずさみながら道真は美野(みの)という女と奥へ消えていった。
 躬恒と貫之はしばらく何も言葉を交わさず座っていた。
 左戸(さと)が二人を見比べるようにした。
「お二人もそろそろお休みになりますか」
 貫之は何も言わずに盃を口に運んだ。
「いや、もう少し飲もう」
 躬恒が言うと、しばらくして左戸が蒸した芋を持ってきた。小さく切ってあって塩を掛けてあった。
 癖になるようなうまさで、二人の酒は進んだ。
「しかし貫之殿はうまくやりましたな」
 芋を口に入れたあと、指をなめながら、躬恒が言った。
「うまくと仰いますと」
「勅撰和歌集の編集責任者のことですよ」
「それでしたら躬恒殿にお譲り致しますよ」
 貫之は本心からそう言ったが、躬恒は大きく手を振った。
「いや、いや、こればかりは、私にはできません。やはりあなたに向いたお仕事でしょう。私は、歌は作りますが、どうもそういう仕事は不向きでしてな」
 貫之は黙っていた。
「あなたはまだ若いから、きっと出世致しますよ。まあ、和歌集が仕上がったら、蔵人頭(くろうどのとう)は堅いでしょうな」
「まさか」
 世が世である。昔ならいざ知らず、今は蔵人頭になれるのは、藤原氏などの有力貴族だけである。蔵人頭になれば、その後の出世は約束されたようなものである。そのような出世コースに紀の家の者が乗れるはずはないのだ。貫之はそう思った。
「いや、まさかではありません。あなたの和歌の技量が非凡であるから、権大納言殿はあなたのことをいたく気に入っておられる。宇多上皇もあなたをお気に入りのようです。敦慶親王を連れていらしたのも、あなたの娘を仕えさせよと、なぞをかけているのではありませんかな」
「まさか」
「いや、いや、そのまさかだと思いますよ。権大納言殿は政界きってのやり手。新しいことをどんどん始めています。遣唐使の廃止、国風文化の振興は、道真殿の改革の目玉です。現代にふさわしい和歌を集大成し、子女の教育の手本とすること、これが道真殿と上皇の最大の狙いでしょう。これによって、漢文に代わり、大和言葉を用いて、言いたいことを自由自在に書き表すことが可能になりますから、我が国の文化水準はめざましく向上することでしょう。あなたが作る和歌集は国民の教科書のようなものですぞ。宮中に和歌所(どころ)のようなものができれば、そこは一種の教育機関になりましょう。それを立ち上げたあと、あなたはきっと国の教育の最高責任者になるでしょう。あなたは蔵人頭から納言に抜擢され、道真殿の右腕になるはずです」
「いや、しかし、政治というのは難しいですからな」
「あなたはご自分が紀氏であることを問題視しておられるのですか」
 貫之は、自分はあまり政治家に向いていないのだと言いたかったのだが、躬恒が受け取った意味を特に否定もしなかった。貫之にとっては、どちらでも構わなかったのだ。
「はあ」
「それは問題にするに値しませんよ。まだ私が小さい時分でしたが、応天門が焼けましてな。大伴氏が犯人ということでしたが、紀氏も大伴氏と親しかったから、大分処分されましたな。その結果、藤原良房様が、人臣として初めて摂政になり、現在の藤原時代が出来上がったわけです。それがなかったら、藤原氏が重要ポストを独占し、他氏が塗炭の苦しみをなめることもありませんでしたなあ。特にあなたの家はとばっちりを受けてひどい災難でしたねえ。しかし、そういう中でも、紀名虎様は娘の静子様を文徳天皇に入内させて、惟喬親王をお産みになりました。文徳天皇は惟喬親王を皇太子にするつもりでしたから、もしそうなれば、あなたの一族が隆盛を極めていたかもしれませんなあ」
「はあ、しかし、まあ、昔のことですからな」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日