芥川

23
左戸(さと)が躬恒に酒を注ぐ。波留(はる)という女が貫之に注いだ。
「もうだいぶ遅くなりましたから、お休みになりませんか」
波留がそう言うと躬恒もその気になった。
「よし、それでは、左戸、俺と一緒に寝るか」
と言って立ち上がった躬恒はふらふらしていたので、左戸は支えながら、奥へ歩き始めた。
「はい、はい。躬恒様、気を付けて下さいませよ」
貫之と二人だけになると、波留が言った。
「お休みになりますか。それとも、まだお飲みになりますか」
貫之は盃を置いた。
「いや、私は帰ることにしよう」
大納言様からずいぶんいただいておりますから、お休みになっていきませんかと再三言われたが、貫之は水無瀬院に戻ることにした。
道は暗かったが、梅の香りで水無瀬院だと知れた。伊勢のことを思い出した。しかし、伊勢のことは忘れなければならないと思った。伊勢だけではない。あまり深い関わりを持つべきではない。和歌集の編纂の件は、自分でも好きなことだし、願ってもないことだ。しかし、政治の中枢からは距離を取りたい。躬恒に応天門の変と惟喬親王のことを言われて、よかったと思った。紀の家は、たしかにかつて野心を持っていた。しかし、失敗した。その経験から紀の家は学習した。政治の中枢からは距離を置くこと。専門的な技能を磨き、他家との違いを鮮明にすること。そうやって家を絶やさず広げず、長く残るようにすること。貫之は父からそのように教えられてきた。他にも教えられてきたことがある。廉直であること。貫之は酔って父の教えを忘れそうになっていた。危うくそれを思い出したのである。
自分が入り込もうとしているのは、一言で言えば、反藤原勢力である。つまり、藤原の氏長者(うじのちょうじゃ)である藤原時平に反旗を翻そうとしている勢力である。もしかすると菅原道真と宇多上皇が勝つかもしれない。たしかにその勢いはある。しかし不安要素も多い。彼らに付いて、負ければ、応天門の変の二の舞になることは必須である。そうなれば、紀の家は、完全に消し飛んでしまうだろう。
朝、家を出るときの、妻の言葉を思い出した。
「あなた、お二方の争いに巻き込まれないように注意してね」
自分はそれに対して何と返事をしたか。
「巻き込まれるも何も、まだ全然何も起こってないよ」
そうだ。そう答えたのだ。しかし、実際には、もう巻き込まれかけていたのだ。
廊に人の気配がした。顔を上げると伊勢だった。伊勢も顔を上げた。髪が乱れている。恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「上様が飲み直そうというものですから」
貫之はにっこりと笑った。
「権大納言様に連れられて、すっかり酔ってしまいました」
「権大納言様と躬恒様は?」
「お泊まりです」
「お一人でお帰りになったのですか」
「ええ」
「なぜですか」
「こちらの方が静かで、ぐっすり眠れると思いましたので」
貫之が局(つぼね)に入ろうとすると、伊勢がそこに立ってじっと顔を見る。
「どうされたのですか」
「私のことを誤解なさっているのでは?」
「はい?」
「髪が乱れているのは、酔いが回って寝込んでしまったからなんですからね。私、今、あなた以外の方とは、枕を交わしてはいませんわ。あなたは遊女と何していらっしゃったの?」
「何もしませんよ。あなたが恋しくて戻ってきたのです」
伊勢は両腕で貫之にしがみついた。
「会いたかったわ」
「私も」
貫之は伊勢を強く抱いた。
父の教えを守るのは、なかなか難しいな。
貫之はそう思いながら、伊勢を入れた。
「もうだいぶ遅くなりましたから、お休みになりませんか」
波留がそう言うと躬恒もその気になった。
「よし、それでは、左戸、俺と一緒に寝るか」
と言って立ち上がった躬恒はふらふらしていたので、左戸は支えながら、奥へ歩き始めた。
「はい、はい。躬恒様、気を付けて下さいませよ」
貫之と二人だけになると、波留が言った。
「お休みになりますか。それとも、まだお飲みになりますか」
貫之は盃を置いた。
「いや、私は帰ることにしよう」
大納言様からずいぶんいただいておりますから、お休みになっていきませんかと再三言われたが、貫之は水無瀬院に戻ることにした。
道は暗かったが、梅の香りで水無瀬院だと知れた。伊勢のことを思い出した。しかし、伊勢のことは忘れなければならないと思った。伊勢だけではない。あまり深い関わりを持つべきではない。和歌集の編纂の件は、自分でも好きなことだし、願ってもないことだ。しかし、政治の中枢からは距離を取りたい。躬恒に応天門の変と惟喬親王のことを言われて、よかったと思った。紀の家は、たしかにかつて野心を持っていた。しかし、失敗した。その経験から紀の家は学習した。政治の中枢からは距離を置くこと。専門的な技能を磨き、他家との違いを鮮明にすること。そうやって家を絶やさず広げず、長く残るようにすること。貫之は父からそのように教えられてきた。他にも教えられてきたことがある。廉直であること。貫之は酔って父の教えを忘れそうになっていた。危うくそれを思い出したのである。
自分が入り込もうとしているのは、一言で言えば、反藤原勢力である。つまり、藤原の氏長者(うじのちょうじゃ)である藤原時平に反旗を翻そうとしている勢力である。もしかすると菅原道真と宇多上皇が勝つかもしれない。たしかにその勢いはある。しかし不安要素も多い。彼らに付いて、負ければ、応天門の変の二の舞になることは必須である。そうなれば、紀の家は、完全に消し飛んでしまうだろう。
朝、家を出るときの、妻の言葉を思い出した。
「あなた、お二方の争いに巻き込まれないように注意してね」
自分はそれに対して何と返事をしたか。
「巻き込まれるも何も、まだ全然何も起こってないよ」
そうだ。そう答えたのだ。しかし、実際には、もう巻き込まれかけていたのだ。
廊に人の気配がした。顔を上げると伊勢だった。伊勢も顔を上げた。髪が乱れている。恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「上様が飲み直そうというものですから」
貫之はにっこりと笑った。
「権大納言様に連れられて、すっかり酔ってしまいました」
「権大納言様と躬恒様は?」
「お泊まりです」
「お一人でお帰りになったのですか」
「ええ」
「なぜですか」
「こちらの方が静かで、ぐっすり眠れると思いましたので」
貫之が局(つぼね)に入ろうとすると、伊勢がそこに立ってじっと顔を見る。
「どうされたのですか」
「私のことを誤解なさっているのでは?」
「はい?」
「髪が乱れているのは、酔いが回って寝込んでしまったからなんですからね。私、今、あなた以外の方とは、枕を交わしてはいませんわ。あなたは遊女と何していらっしゃったの?」
「何もしませんよ。あなたが恋しくて戻ってきたのです」
伊勢は両腕で貫之にしがみついた。
「会いたかったわ」
「私も」
貫之は伊勢を強く抱いた。
父の教えを守るのは、なかなか難しいな。
貫之はそう思いながら、伊勢を入れた。