芥川

24
パチパチと柔らかく炭火がはねた。女たちの匂いが立ちこめている。菓子の甘い匂いも混じっている。
「伊勢の物語はいつ聞いても面白いわ」
紅の小袿(こうちき)に髪がかかり、毛先が切りそろえてある。その周りに妹たちや女房たち、女童(めのわらわ)たちが集まって、座っている。
「明日花(あすか)姫様にお褒めいただき光栄ですわ」
薄紫の小袿姿の伊勢がうれしそうに微笑んだ。
「他のお話はないの?」
中の君が詰め寄った。
「では、悪い僧侶から助けられた女の話をいたしましょう」
「わあ、面白そう」
三の君が身を乗り出した。手に持った菓子がぽろぽろこぼれているのも気づかない。
「三の君様、お菓子がこぼれておりますよ」
女房が拭き取っているのも気づかない。女房も拭き取った布を持ったまま、伊勢の話に引き込まれていった。
「あるとき、中納言が寺に参詣する途中、人々が騒いでいるので、従者に見に行かせました。姫が牛車で泣いていて、僧侶が逃げていったというのです。中納言が牛車の中を見ると、美しい姫が泣き伏せていました。中納言は姫の屋敷を女房から聞き出し、送り届けました。姫の親は驚きました。いつも仏の教えを説いてくださる僧侶が姫に懸想して、ありがたい観音様のところへ連れて行ってくれるとだまして出掛けたのですが、その途中で言い寄ってきたのです。親は年配で信用していた僧侶なのに、こんなことになってどうしたらよいかわからないと言いました。姫はすっかり落胆して、死んでしまいたいと言っては泣きます。中納言は姫が僧侶のものになってしまったと思い、それがたまらないように感じ、また、姫を送り届けたことが僧侶に知れたら、報復されるのではないかと考え、すぐに帰ろうとしましたが、姫からあなたに見捨てられたら私は恥ずかしさに堪えられなくて死ぬよりほかはないでしょうと言われ、その日は姫の家に泊まることにしました。翌朝、中納言は、姫は僧侶のものにはなっていなかったことを、実際に確かめることができ、また、姫が非の打ち所がないほど素晴らしい女性であることがわかったので、それから毎日通ってくるようになりました。世間では僧侶に盗まれた姫君という噂が立ちましたが、そんなことは気にせずに、中納言が大切に世話をしましたから、世間の噂もそのうちにすっかり消えてしまい、いつしか姫君は中納言の北の方になり、生涯幸せに暮らしました」
パチパチとまた柔らかく炭火がはねた。
「ねえ、姫が僧侶のものになっていなかったことを、中納言はどうやって確かめたの?」
部屋の中が暑いせいか、三の君は上気した顔で訊いた。
「三の君様、そのようなことはそのうちに自然におわかりになることですよ」
女房がたしなめたが、三の君はどうしても知りたがって、伊勢を困らせた。
「伊勢、盗まれた女の話、もっとないの?」
明日花姫が助け船を出した。
伊勢はしばらく考えていたが、すぐに表情を明るくした。
「それでは芥川のお話をいたしましょう」
「芥川?」
伊勢は、貫之から教えてもらった芥川を語った。
伊勢の口ぶりに近づけるため、当時の言葉で書く。
「昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、かれは何ぞとなむ男に問ひける。行く先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・やなぐいを負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はやひと口に食ひてけり。あなやと言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」
「伊勢の物語はいつ聞いても面白いわ」
紅の小袿(こうちき)に髪がかかり、毛先が切りそろえてある。その周りに妹たちや女房たち、女童(めのわらわ)たちが集まって、座っている。
「明日花(あすか)姫様にお褒めいただき光栄ですわ」
薄紫の小袿姿の伊勢がうれしそうに微笑んだ。
「他のお話はないの?」
中の君が詰め寄った。
「では、悪い僧侶から助けられた女の話をいたしましょう」
「わあ、面白そう」
三の君が身を乗り出した。手に持った菓子がぽろぽろこぼれているのも気づかない。
「三の君様、お菓子がこぼれておりますよ」
女房が拭き取っているのも気づかない。女房も拭き取った布を持ったまま、伊勢の話に引き込まれていった。
「あるとき、中納言が寺に参詣する途中、人々が騒いでいるので、従者に見に行かせました。姫が牛車で泣いていて、僧侶が逃げていったというのです。中納言が牛車の中を見ると、美しい姫が泣き伏せていました。中納言は姫の屋敷を女房から聞き出し、送り届けました。姫の親は驚きました。いつも仏の教えを説いてくださる僧侶が姫に懸想して、ありがたい観音様のところへ連れて行ってくれるとだまして出掛けたのですが、その途中で言い寄ってきたのです。親は年配で信用していた僧侶なのに、こんなことになってどうしたらよいかわからないと言いました。姫はすっかり落胆して、死んでしまいたいと言っては泣きます。中納言は姫が僧侶のものになってしまったと思い、それがたまらないように感じ、また、姫を送り届けたことが僧侶に知れたら、報復されるのではないかと考え、すぐに帰ろうとしましたが、姫からあなたに見捨てられたら私は恥ずかしさに堪えられなくて死ぬよりほかはないでしょうと言われ、その日は姫の家に泊まることにしました。翌朝、中納言は、姫は僧侶のものにはなっていなかったことを、実際に確かめることができ、また、姫が非の打ち所がないほど素晴らしい女性であることがわかったので、それから毎日通ってくるようになりました。世間では僧侶に盗まれた姫君という噂が立ちましたが、そんなことは気にせずに、中納言が大切に世話をしましたから、世間の噂もそのうちにすっかり消えてしまい、いつしか姫君は中納言の北の方になり、生涯幸せに暮らしました」
パチパチとまた柔らかく炭火がはねた。
「ねえ、姫が僧侶のものになっていなかったことを、中納言はどうやって確かめたの?」
部屋の中が暑いせいか、三の君は上気した顔で訊いた。
「三の君様、そのようなことはそのうちに自然におわかりになることですよ」
女房がたしなめたが、三の君はどうしても知りたがって、伊勢を困らせた。
「伊勢、盗まれた女の話、もっとないの?」
明日花姫が助け船を出した。
伊勢はしばらく考えていたが、すぐに表情を明るくした。
「それでは芥川のお話をいたしましょう」
「芥川?」
伊勢は、貫之から教えてもらった芥川を語った。
伊勢の口ぶりに近づけるため、当時の言葉で書く。
「昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、かれは何ぞとなむ男に問ひける。行く先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・やなぐいを負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はやひと口に食ひてけり。あなやと言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを」