芥川

芥川
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 薫き物がさまざま混じり合う中、女たちがとりとめのない話をしている。
「ねえ、伊勢の物語って面白いよね」
「そうそう、私、最近、芥川っていう物語を聞いたけど、面白かったわ」
「えー! 私、それ、聞いてない。式部、それ、どこで聞いたの?」
「このあいだ、時平様のお屋敷に殿がお出かけになったときに、明日花姫様の御前でたまたまね」
「明日花姫様は伊勢をお気に入りですものね。うらやましいわ」
「春日姫様、こちらにも伊勢に来ていただきませんか?」
 白い袿を着た春日姫は髪を結っている大和を見上げた。
「ええ、そういたしましょう。私もぜひ聞きたいわ」
 春日姫は、母の部屋に行き、懇願した。母も伊勢の話を聞きたいと思っていたので、即座に賛成し、あとで父に頼んでみると約束した。春日姫の父は源光(みなもとのひかる)だった。光は皇太夫人の温子(おんし)に仕えている女房の伊勢は、宇多上皇のお気に入りでもあったので、ぜひ近づきになりたいと考え、伊勢の知り合いの女房に頼んでみた。この女房は光の愛人であった。伊勢はあまり面識のない源光の屋敷に行くのをためらったが、自分の物語をどうしても聞きたいという春日姫の言葉をうれしく思い、承諾した。
 当日になると、春日姫の部屋は大勢の人でごった返した。女だけでなく、父の光やその公達たちまで押しかけたので、急遽、寝殿の南廂(みなみびさし)と簀子(すのこ)に場所を移し、女たちは御簾越しに聞くことになった。
 伊勢は、いくつか話を語ったあとに、水無瀬(みなせ)の夜に聞いた業平の話も混ぜた新しい趣向の芥川を披露した。
「昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、かれは何ぞとなむ男に問ひける。行く先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・やなぐいを負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はやひと口に食ひてけり。あなやと言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

 これは二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄(しようと)、堀河の大臣(おとど)、太郎国経(くにつね)の大納言、まだ下﨟(げろう)にて、内裏(うち)へ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへしたまうてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや」
 伊勢の声は咲きそろった桜のように、柔らかく艶があった。
 欄干にはらりと落ちた桜の花びらを大和はそっとつまみ上げた。
「姫様、きれいな花びらですよ」
「まあ、本当ね」
 春日姫は花びらを手のひらに載せて、大和に訊いた。
「二条の后というのは、高子(たかいこ)様のことよね」
「ええ、そうだと思いますけど」
「ということは、この男は業平様かしら」
「本当ですわね。私、伊勢に直接確かめてみますわ」
 大和は話し終わって温かいものを飲んでいる伊勢に近寄った。春日姫の質問を伝えると、伊勢は、自分も人から伝え聞いただけだからよくはわからないが、おそらくそうなのだろうと答えた。
「しかし、業平が白玉の歌を詠んだというのは聞いたことがないなあ」
 二人のやりとりを近くで聞いていた光がいぶかしそうに言った。
「私も業平とはよく酒を飲んだものだが、高子様と芥川に行った話は聞かなかったぞ。伊勢はいったい誰から聞いたんだね」
「ええ、まあ、それは……」
 伊勢は顔を赤らめた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日