芥川

芥川
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26

 菓子の匂い、酒の匂い、そこに桜の花の匂いが混じり、むせ返りそうな部屋の空気だった。
 伊勢は水無瀬の夜のことを源光(みなもとのひかる)に話した。しかし、水無瀬の夜のこととは言わなかった。いつだったかは忘れてしまったが、皇太夫人の温子(おんし)の御前に上皇と道真が訪れ、何かの話のついでに業平のことに上皇か道真が触れたような気がする。伊勢はそんなふうに当たり障りなく説明した。
「ほう、上皇と道真殿か。それでは新しい和歌集を作る話でもしておったのかな」
「それはわかりませんが、当代の歌の名手の名がいろいろ出ていたと思います」
「歌の名手と言うと、敏行(としゆき)や躬恒(みつね)、友則(とものり)などの名も出ていたのだろうな」
「はい、藤原敏行様、凡河内躬恒様、紀友則様などの御名前は出ていたように思います」
「他には誰の名が出ておったのだ」
 伊勢の首筋に冷や汗が伝った。
「ええ、たしか、紀友則様のご親戚の紀貫之様の御名前も出ていたように思います」
「そうか貫之の名も出たか。それで業平が高子様を連れて逃げたと言ったのは、上皇か、道真殿か」
「誰がおっしゃっていたか、もうよく覚えていないのですが、躬恒様がそのようなことをおっしゃっていたというふうに、どなたかからお伺いしたような気がいたします」
「ほう、そうか、たしかに、躬恒は業平と付き合いがあったから、いろいろと業平の秘密を知っているかもしれんな」
 光がいかにも楽しそうに高笑いしていると、大和が近寄ってきた。
「殿、春日姫様がお話ししたいと」
 光はうなずいて、御簾の前に立った。姫の袿(うちき)に焚きしめた香りがかぐわしい。光はこの香りをかぐたびに思う。これは本当に私の娘なのだろうかと。私のような武骨な男からどうしてこのように女らしく可憐な娘が生まれただろう。生命とは何とも不可思議なものだ。
「どうしたのだ、春日、何か話があるとか」
 中から細く柔らかい声が聞こえる。
「父上、伊勢の物語は業平様のことなのでしょうか。父上は業平様のことはよくご存知と伺っておりますので、お教え願いたいと思いまして」
 いや、実はそれほど業平のことを何でも知っているわけではないとは、何となく言い出しづらかった。父親としての尊敬をこのかわいらしい娘から得たいという気分が、光の状況判断を大きく左右した。
「そうだな、直接業平から聞いたことはないし、彼も言いたくはなかったのだろうが、高子様と何らかの関係があるということは、さすがにこの私も薄々は気づいておったよ。今、伊勢から事実を聞いたのだが、私よりももっと業平と親しかった凡河内躬恒が直接話を聞いたそうなのだ。そのうちに躬恒に会ったら、このことの真偽を確かめてみるが、まあ、大体のところ、これは事実と見ていいのではないかな」
 春日姫は驚いた。高子が清和帝に入内(じゅだい)する直前に業平に盗まれたということが事実であれば、これは日本の歴史が始まって以来の大事件である、というように若い姫の目には映ったからである。今日は、伊勢の話を聞いて、思いがけない重大な秘密を知ってしまったと、姫は興奮に胸が熱くなった。
「父上、私はあまりのことに、胸が苦しくなって参りました」
 光は驚いた。
「大丈夫か、春日」
 すぐに春日姫は女房たちに付き添われて部屋に戻った。ただ大和だけは春日姫に何か言って、その場に残った。そして、伊勢に近寄った。
「伊勢、今日はありがとうございました」
 深々と頭を下げる大和に伊勢も頭を下げた。
「大和、あなたの噂はかねがね伺っております。あなたもたくさん面白い物語をご存知とのこと」
「いえ、あなたほどでは」
「よかったら、私たちの知っている物語を交換しませんか」
 大和の目が輝いた。
「それはとてもすばらしいお話です。ぜひそうさせてください」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日