芥川

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27

 鹿の子(かのこ)まだらに桜の花びらが廊にこぼれていた。
 誰もそんなことには見向きもせず、せわしく廊を往き来していた。そのため花びらもあちらへこちらへと忙しく跳び回った。
 貫之は廊の桜を見て、よけようとしたが、ぴたりと足を止めると、後ろに下がり、じっと見つめた。
「これは何かの形をしているぞ」
 そう思ったが、何の形か思い付かなかったので、立ち去ろうとすると、
「あら、桜がきれいに散り敷いておりますこと」
 藤原忠平(ふじわらのただひら)の邸宅である東三条殿(ひがしさんじょうどの)に仕えている女房の武蔵(むさし)が、これも貫之と同じように、桜の花びらに目を留めた。
「何だか、お山の形みたいですわね」
「山の形?」
「ええ、私が小さいころ、父の赴任先の武蔵国(むさしのくに)から京へ戻る途中、駿河国(するがのくに)で見たのですわ。夏なのにまだ雪が残っていたので、驚きましたわ」
「それは、もしかすると、富士とかいう名の山ですか」
「ええ、富士ですわ。その雪の残っている様子が、この桜の花びらのように、鹿の子まだらになっていました」
「そうですか。面白いですねえ。私はまだ東国(とうごく)には行ったことがありませんので、そのような話はとても面白く、新鮮に感じられます」
「武蔵、駿河、三河(みかわ)では、思い出がいろいろありますわ」
「そうですか。それは一度ゆっくりとお話をお伺いしたいですねえ」
 武蔵は、顔を赤らめ、恥ずかしそうに貫之を見つめた。
 貫之は、武蔵が何か誤解をしていることに気づき、その誤解を解こうと口を開きかけた。
「あのう、もしよろしければ、今日は北の方が殿の御前(おまえ)にお出かけになる日で、たまたま付き添いが他の女房に当たっておりますので、私は局(つぼね)に残っております。ですから、少しぐらいでしたら、お話しする時間があると思いますが」
 貫之は驚いた。それと同時に躊躇した。誘い掛けたつもりではないと言うべきか、ぜひ話を聞きたいと言うべきか、ということをである。
「しかし、ご迷惑ではありませんか」
「いえ、あの、実は私、貫之様から一度和歌の詠み方を手ほどきいただきたいとかねがね思っておりましたので、ご迷惑でなければそのときに、お願いできますでしょうか」
「もちろん、私は構いませんが」
「ありがとうございます」
 武蔵は局の場所、都合のよい時間、声を掛けるときのタイミングなどを貫之に伝え、立ち去った。後ろ姿がさわやかである。
 貫之はこのように女から話を持ち掛けられることは記憶になかった。またこちらから持ち掛けることもなかった。自分のような退屈な男に武蔵のような美貌の才女が興味を抱くとはとても思えなかった。このところ何かがおかしい。しかし、何がおかしいかはよくわからない。貫之はそう思い、武蔵の局に行かない方が身のためであるような気がした。しかし、東国での実体験を直接聞くことができる機会を棒に振りたくはなかった。本当は、それ以外のことへの衝動も貫之を動かしていたが、貫之は自分にはそういう考えはないと思った。頭で思うことと衝動が起きることとは別なのであった。
 桜の花に蝶が近寄った。
 貫之はそれを見てハッとした。花が咲くと蝶が寄ってくる。花が落ちるともう蝶は寄りつかない。蝶は自分の得たいものがどこにあるのか知っているのだ。女も知っている。自分の得たいものを持っている男を。自分に武蔵が近づくのは得たいものを持っていると思うからだ。もしかすると自分は上皇や道真様のもとで出世し、自分の一族は盤石な基盤のもとで繁栄するのかもしれない。自分ではまったく実感がなかったが、敏感な人たちはそういうことに気づき始めているのかもしれない
 貫之が身震いしたのは、渡殿(わたどの)に吹き付けた春風が思いの外に冷たかったためだけではない。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日