芥川

芥川
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28

 夜になると春風はいっそう肌に冷たかった。渡殿(わたどの)を急ぐ足が冷え切っている。東の対屋(たいのや)の西の廂(ひさし)に着くと、戸は閉まっていた。貫之はそっと押してみた。軽々と開いた。桜の香りがした。武蔵の香りである。灯台(とうだい)の光があかあかとしている。几帳(きちょう)の奥はひっそりと静まっている。
(誰もいないのだろうか?)
 貫之は不安を覚えながらも、無言で中に入った。灯台の光がまぶしかった。
「貫之様、お待ちしておりましたわ」
 きちんとした姿で文机(ふづくえ)に向かった武蔵が振り向いた。火桶(ひおけ)の炭が赤く熾(おこ)っている。二階棚(にかいだな)にちょっとした食べ物や飲み物が用意されている。
「他の方はいらっしゃらないのですか」
「皆北の方の御供をしておりまして、私一人ですので、どうぞおくつろぎください。お酒はいかがですか」
 盃を渡そうとする。
「では、少しだけ失礼いたします」
 貫之は腰を下ろすと、盃を受け取った。
 武蔵が酒を注ぐ。
 貫之は書庫の整理の話をした。東三条殿(ひがしさんじょうどの)の書庫を整理して三週間目になる。忠平の家人が手伝ってくれたが、武蔵もその一人であった。書籍の分類法を教えると、武蔵はそれをすぐに覚え、貫之の指示と寸分違うことなく、分類してくれた。
「ところで貫之様、先ほどお願いしたことなのですが、本当によろしいのですか」
 武蔵がおずおずと訊いた。
 貫之は思い出した。
「もちろんです。では、どのようにお話いたしましょうかね」
 武蔵は文机に向かった。
「実はお待ちしているあいだに、詠んでみたものがあるのですが」
「どれどれ」
 貫之は武蔵の後ろからのぞきこんだ。武蔵の袿(うちき)に焚きしめた香の匂いが心地よい。

ひとめ見し君もやくると身を焦がし桜のごとく散りて果てなむ

 これは困ったと貫之は思った。ふと伊勢のことを思い出した。伊勢の歌はどれも見事だ。直すべきことがないどころか、自分もこう詠めたらいいと思うことがしばしばだ。しかし、武蔵の歌は複雑だ。どう直したらよいのかわからないどころか、いっそのこと歌を詠むのはもうやめた方がいいと言ってやりたいぐらいだ。
「いろいろな思いが詠みこまれていますね」
「おわかりになりますか」
「ええ、恋人になった男の人を待つ歌ですね」
「え? いえ、まだ恋人にはなっていないのです」
「あ、そうですか。では、恋人になったときのことを想像しているわけですね」
「まあ、そういうことですかね」
「それで、この未来の恋人が来るのを待って、身を焦がしている、約束をしたのになかなか来ないので不安になっている、もし今夜来なかったら、桜の花が散るように、私も焦がれ死にしてしまうだろう、そんな意味でよろしいのでしょうか」
「さすが貫之様、よくおわかりになりますね」
「ありがとうございます。しかし、今夜来なかったらという意味が言葉として歌に詠みこまれた方がよいかもしれませんね」
「なるほど、それは、どんなふうにすればよろしいのでしょうか」
「たとえば、桜の花があの方に見てもらおうと思って散らずに待っているのだけれど、あの方が訪れないまま散ってしまうのなら潔く散ってしまってほしい、などというふうに少し変えてみるのはいかがでしょう」
「なるほど、あの人に見てもらいたいと思っているのは桜の花なのですね。それはいいですねえ。あの人が来ないまま花が散るのならいっそのこと散ってほしいと。貫之様、すごい!」
 武蔵は貫之に抱きついた。
「今、書いてみてもよろしいですか」
「もちろんです!」

ひとめ見し君もやくると桜花今日を待ちみて散らば散らなむ

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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日