芥川

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29

 風の運んできた春の香りが室内の至る所にあふれていた。母屋(もや)に通された貫之は、忠平に面(おもて)を上げるように言われた。
「それでは、もう書庫の整理が済んだと言うのですか」
「はい」
「まだ一か月もたっていないではありませんか」
「殿の家人の方々が大変手際よく手伝ってくださいましたので」
「いや、そんなことはありません。あなたの計画と指示が的確だったためでしょう。とにかく、あなたの仕事ぶりには満足しています。何かお礼をしたいのですが、お望みのものがありますか」
「別院のことなのですが」
「ああ、和歌集の編纂場所として使いたいということですね。もちろんです。まだ正式に和歌所も設置されていませんから、しばらくのあいだ、ご自由にお使いください。伊勢もあなたの好きに使ってください」
「ありがとうございます」
「他にはありませんか。私の家人を誰かお譲りいたしましょうか」
「え?」
「武蔵は気のつく女ですから、何かと重宝するでしょう」
 貫之は思わず頬を染めた。
「ありがとうございます」
 やはり忠平様はご存知だったか。貫之は恥ずかしさと同時に喜びを感じた。しかし、多少億劫でもあった。妻にどう切り出せばよいかわからなかったからである。
 あの夜以来、武蔵のことがいとおしくなっていった。と同時に、伊勢への悩みが薄らいだ。伊勢は宇多上皇のお気に入りである。不幸にも逝去なされたが、かつて、皇子まで設けたのだ。その伊勢にこれ以上深入りするわけにいかなかった。その悩みが、武蔵を知ることで、解消したのである。その上別院は、今や歌人たちの作業場に変わっていた。いつも誰かしら歌を選んだり、整理したりしているから、伊勢と二人で話をすることなどまったくできなくなっていた。それでいいのである。
 貫之が心の中で、「それでいいのである」と二、三度繰り返していると、忠平が声を掛けた。
「他にご所望のことはありませんか」
「いえ、これ以上は何もありません。忠平様には本当によくしていただいて、誠にありがとうございました」
「いや、いや、礼を言うのはこちらです。あなたは本当に有能な方です。これからもいろいろとお頼みしたいことがあると思いますので、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます」
 座を立ちかけた貫之は、あることを思い出し、また腰を下ろした。
「そう言えば、たいしたことではないのですが、一つ気になっていることがあります」
「何ですか」
「あなたのおじいさまのお手紙のことです」
「ああ、あのことですか。あれは、あなたに和歌集の編纂責任者になっていただくための苦肉の策で私が企んだことですから、もうどうでもいいのですよ」
「ええ、私もそう思っておりますが、一つだけ、場合によっては処分してしまった方がいいお手紙、というより、日記といった方がよいでしょうか、そのようなものがあるのですが、もしよろしければ、実物をお目にかけながら、ご説明したいと思いますが、いかがでしょうか」
 忠平は気になったようであった。
「では、誰かに取りにいかせよう」
「いえ、それには及びません」
 貫之はさっと立ちあがり、一礼すると、殿の御前(おまえ)から退出した。忠平の従者が飲み物を替えていると、貫之が古びた箱を奉じて戻ってきた。
「では、見せていただけますか」
 貫之が何か言おうとして、口をもごもごしているので、忠平も察し、人払いをした。
 貫之が近寄って、蓋を開けた。かび臭い紙の匂いがする。
「これはおじいさまの日記でしょうか」
「どうでしょうか。私にはよくわかりませんが」
「基経、高子(たかいこ)と名前を呼び捨てになさる方は他にはあまりいらっしゃらないのではないでしょうか」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日