芥川

30
まだ弱い春の陽ざしが陰り、室内は急に暗くなった。
「うん、たしかにそうです。基経(もとつね)、高子(たかいこ)という呼び捨ては、私の実の祖父である長良(ながら)か、義理の祖父である良房(よしふさ)か、そのどちらかぐらいしかしないでしょうね」
「私は良房様ではないかと思いました」
「ふむ、なるほど……。それで、今度は、これを処分した方がよいという理由を伺いましょうか」
「ハッ、実は私は、殿に初めにご依頼されたことを、いまだに調べておりました」
「祖父が手紙を贈った女性のことですか。そんなことはどうでもよろしかったのに」
「気になると、はっきりさせたくなる性分でして、これには私自身も手を焼いております」
「それで、この日記にはその女性の名が書かれていて、しかも公言憚られるというのですか」
「私が説明するよりも、この日記をご覧いただいた方が早いと思われます」
「わかりました。読んでみましょう」
忠平は貫之の手から日記を取った。
「申し訳ありません。その前にこの日記を処分した方がよいと私が判断したもう一つの理由をご説明したいのですが」
「もちろんかまいませんよ」
「私がそのように判断したのは、良房様ご自身に、この日記を処分する意図がおありだったのではないかという気がしたためです」
忠平は顔を上げた。
「どういうことですか」
「実はこの日記は、書庫にある大きな炭櫃(すびつ)の灰の中に埋められていたのです」
「すでに使われなくなった大昔の炭櫃の中にですか」
「はい、すっかり痛んで、不要な品々がいっぱい詰めこまれた炭櫃でございます。私は、書庫にある書籍の類いを慎重に分類していきましたが、最後の一冊を整理し終えても、とうとう良房様が贈った手紙の相手が判明しませんでした。そこで、もしや炭櫃の中に手がかりがあるかもしれないという気がして参りまして、思い切って炭櫃の中身を全部外へ出して、整理してみました」
「ほう」
「すると、底の方から、灰にまみれた紙の包みが出て参りまして、その中にこれがございました。漢文ではなく仮名交じり文で書かれていましたので、すぐに私は、誰かの私的な日記だろうと判断しました」
「それで、その書き手が私の義理の祖父だというのですね」
「はい。どうぞ、このあたりからお読みください」
忠平は貫之が指をさした箇所から読み始めた。かび臭い匂いがするが、読むのに支障があるほどには痛んでいなかった。日記には次のような内容が書かれていた。
基経は我が甥ながら頭が切れる男だ。いや、切れすぎる男だ。それにしても、妹があれほど嫌がっているのだから、無理に入内させなくてもよいのに。そう私がいくら言っても、まったく聞く耳を持とうとはしない。ああ、私のあの過ちさえなければ、基経に勝手な真似はさせなかったのになあ。
世間では、高子が業平に惚れているから、清和天皇への輿入れを嫌がっていると思っているようだが、それはまったく違う。また、世間では私が藤原氏の外戚政治を強化するために、私が姪の高子を私の孫の清和天皇に入内させようとしていると思っているようだが、それもまったく違う。
高子が業平と交際したのは事実だ。しかし、入内嫌さに駈け落ちするほど、業平を愛しているわけではない。高子は男に惚れやすい。業平は言うなれば高子の遊び相手の一人に過ぎない。また、私は藤原氏の外戚政治をこれ以上長引かせることは、あまり賢明な策とは思っておらぬ。したがって、私の孫があの年齢で即位するのはよくないと思っていた。本当は聡明で人徳のある惟喬(これたか)親王が即位すべきだったのだ。それを基経が……。
忠平は眉間に皺を寄せて紙を次々にめくった。貫之がたとえ中断させようとしても、もはや無駄のようであった。むろん貫之にはそのような意志などないが。
「うん、たしかにそうです。基経(もとつね)、高子(たかいこ)という呼び捨ては、私の実の祖父である長良(ながら)か、義理の祖父である良房(よしふさ)か、そのどちらかぐらいしかしないでしょうね」
「私は良房様ではないかと思いました」
「ふむ、なるほど……。それで、今度は、これを処分した方がよいという理由を伺いましょうか」
「ハッ、実は私は、殿に初めにご依頼されたことを、いまだに調べておりました」
「祖父が手紙を贈った女性のことですか。そんなことはどうでもよろしかったのに」
「気になると、はっきりさせたくなる性分でして、これには私自身も手を焼いております」
「それで、この日記にはその女性の名が書かれていて、しかも公言憚られるというのですか」
「私が説明するよりも、この日記をご覧いただいた方が早いと思われます」
「わかりました。読んでみましょう」
忠平は貫之の手から日記を取った。
「申し訳ありません。その前にこの日記を処分した方がよいと私が判断したもう一つの理由をご説明したいのですが」
「もちろんかまいませんよ」
「私がそのように判断したのは、良房様ご自身に、この日記を処分する意図がおありだったのではないかという気がしたためです」
忠平は顔を上げた。
「どういうことですか」
「実はこの日記は、書庫にある大きな炭櫃(すびつ)の灰の中に埋められていたのです」
「すでに使われなくなった大昔の炭櫃の中にですか」
「はい、すっかり痛んで、不要な品々がいっぱい詰めこまれた炭櫃でございます。私は、書庫にある書籍の類いを慎重に分類していきましたが、最後の一冊を整理し終えても、とうとう良房様が贈った手紙の相手が判明しませんでした。そこで、もしや炭櫃の中に手がかりがあるかもしれないという気がして参りまして、思い切って炭櫃の中身を全部外へ出して、整理してみました」
「ほう」
「すると、底の方から、灰にまみれた紙の包みが出て参りまして、その中にこれがございました。漢文ではなく仮名交じり文で書かれていましたので、すぐに私は、誰かの私的な日記だろうと判断しました」
「それで、その書き手が私の義理の祖父だというのですね」
「はい。どうぞ、このあたりからお読みください」
忠平は貫之が指をさした箇所から読み始めた。かび臭い匂いがするが、読むのに支障があるほどには痛んでいなかった。日記には次のような内容が書かれていた。
基経は我が甥ながら頭が切れる男だ。いや、切れすぎる男だ。それにしても、妹があれほど嫌がっているのだから、無理に入内させなくてもよいのに。そう私がいくら言っても、まったく聞く耳を持とうとはしない。ああ、私のあの過ちさえなければ、基経に勝手な真似はさせなかったのになあ。
世間では、高子が業平に惚れているから、清和天皇への輿入れを嫌がっていると思っているようだが、それはまったく違う。また、世間では私が藤原氏の外戚政治を強化するために、私が姪の高子を私の孫の清和天皇に入内させようとしていると思っているようだが、それもまったく違う。
高子が業平と交際したのは事実だ。しかし、入内嫌さに駈け落ちするほど、業平を愛しているわけではない。高子は男に惚れやすい。業平は言うなれば高子の遊び相手の一人に過ぎない。また、私は藤原氏の外戚政治をこれ以上長引かせることは、あまり賢明な策とは思っておらぬ。したがって、私の孫があの年齢で即位するのはよくないと思っていた。本当は聡明で人徳のある惟喬(これたか)親王が即位すべきだったのだ。それを基経が……。
忠平は眉間に皺を寄せて紙を次々にめくった。貫之がたとえ中断させようとしても、もはや無駄のようであった。むろん貫之にはそのような意志などないが。