芥川

芥川
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 築地(ついじ)が長く続き、侍が警護に当たっている。その内側には清潔な庭園が控えている。藤、橘、卯木(うつぎ)、撫子(なでしこ)、蓮の花が咲いていた。
 良房(よしふさ)は暑いので廂(ひさし)の間まで出て、御簾(みす)の手前に文机(ふづくえ)を置き、和歌を認(したた)めていた。
(橘の花の香りがする。何とよい香りだろうか。あの夜を思い出す。)
 廊下をこちらへ急ぐ音がする。いやな予感がする。ここ数日仕事に追われ、やっとそれを片付けたばかりなのに、また厄介な問題に悩まされるのではないだろうか。そんな気がしたのである。
「基経様がお見えになりました」
 予感は当たった。良房はそう思った。
「通せ」
 それだけ言った。雑色(ぞうしき)に何かを訊いたり、自分の意見を言ったりしても、時間の無駄になるだけであるということを、長い年月をかけて学んだ。簡潔で的確な命令をするにしくはない。
「ハッ」
 雑色は来たときのように引き返した。
 やがて、先ほどの雑色に案内されて基経が来た。
 基経は礼儀作法にかなった丁重な挨拶をした。良房もそれに応じた。しばらくの間、世間話をした。ここまでは養子による養父へのご機嫌伺いの手本と言ってよい。そろそろ来るなと良房は予感した。
「ところで父上」
 基経は良房を見据えた。
「何だ」
 時鳥が鋭く鳴いた。
「高子(たかいこ)には困ります」
「うむ」
「何がいやなのでしょうか」
「さあな」
「本当に我が妹ながらあきれます。昔からどんなに手を焼いてきたことか」
 良房には基経の言いたいことはわかるが、素直に応じる気持ちはなかった。
「そう思いませんか」
「まあ、そうだな」
「私の言うことなど、聞く耳持ちません」
 そら来たぞと良房は思った。
「やはり父上に言っていただかないと駄目だと思います」
「そうかもしれないな」
「そうかもとは父上、ちと頼りない言葉ではございませんか。私に任せろとか、頼もしいお返事がいただけるつもりでしたのに」
 良房は文机の上を指で軽く何度も叩いた。しばらくして基経の顔を見据えた。
「それでは私の考えをお前に伝えておこう」
「はい」
「私は清和天皇には高子ではなく、別の者を仕えさせようと思っている」
「別の者とはいったい誰ですか」
 基経はいざり寄った。
「多美子だ」
 多美子は良房の弟である良相(よしみ)の娘だ。良相は右大臣、そして良房は現在、太政大臣だった。太政大臣で、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)でもある良房の意のままにならないものは、この世にないと言っていい。良房が高子の入内を断念し、多美子を入内させようと考えたならば、世の中はそのように動く。基経は当然それを知っていた。そして、良房に面と向かって逆らうつもりは毛頭なかった。
「なるほど、それは賢明なお考えです」
「お前は反対しないのか?」
「はい。先ほどまでは藤原氏繁栄のために高子入内は必須と考えておりましたが、父上の多美子入内の案を伺い、そちらの方が上策であると感じました。高子は変わっておりますから、入内後も悩まされることになりそうです。しかし、多美子は真面目ですから、我々を困らせるようなことは致しますまい」
「そうだな」
「ただ」
「ただ、何だ?」
「多美子が皇子を生めば、叔父上が政務を執りなさるでしょう。それでもよろしいのですか」
「私は一臣下がいつまでも政務を執り続けるべきではないと思っている。いや、一氏が占有するのもよくないことだ。お前はどうなのか。高子に皇子を生ませて、お前が太政大臣にでもなるつもりだったのか」
「いえ、私も父上と同意見でございます」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日