芥川

芥川
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32

 橘の香りが風に運ばれてきた。
 良房は早く一人になりたかった。
「他に何か気になっていることがあるか」
「ございません」
「少しゆっくりしていくか。前栽(せんざい)の花々も咲きそろってきたぞ」
 早く一人になりたいという気持ちを見抜かれるのもいやなので、わざとこう言ってみた。いや、養父がこう言うと基経は必ず辞去することを知っているので、早く一人になろうと思って言ったというのが正しかった。そして、その判断は間違っていなかった。
「せっかくですが、それはまた後ほどにいたしましょう。お邪魔いたしまして、失礼いたしました」
 基経は丁重に礼をして、退出しようとした。しかし、もう一度良房の顔を見つめて、口を開いた。
「高子(たかいこ)は誰と結婚させたらよいでしょうか」
 良房も思案した。
「高子はまだ業平を思っているのか」
「わかりません。私には口を利かないのです」
「お前は業平と結婚させてもよいと思うか」
「どうなのでしょう。血筋は問題ないと思いますが、業平殿は公卿になり得るでしょうか」
「そういう男ではなさそうだな」
「多美子が入内した後、高子が少し落ち着いてきたら、清和天皇に入内させるというのはどうでしょうか」
 良房は何も言わずに基経の顔を見た。基経は良房の心を見通すようにじっと見ている。
「まあ、それは考えてもいいな」
「ありがとうございます」
 基経は深々と頭を下げた。そして、立ち上がって、後ろを向いた。
「基経」
 基経は振り返った。
「なんでございましょう、父上」
 良房はしばらく基経の顔を見ていたが、
「いや、何でもない」
とだけ言った。基経は去った。
 一人になったが、良房は少しも和歌を詠みたい気分ではなかった。考え込んでいた。老いてから、こともあろうに、姪を愛してしまった。小さいころから高子は、良房になついた。叔父も姪のように姪をかわいがった。高子が美しく成長し、関係に変化が生じた。高子の父が亡くなり、高子の兄の基経を養子にした。そのうちには高子も養子にするつもりだった。自分が面倒を見て、基経を跡継ぎに、高子を皇后にと、その一心だけであった。しかし、高子は皇后に育てるという教育方針にはしばしば収まりきれない行動を取るお転婆だった。いつの間にか高子の部屋に男が来ていた。一度や二度ではない。しかも、望まない連中ばかりだ。なぜ高子はこんなどうしようもない男ばかり引っ張り込むのか。基経はそう言って怒った。良房も諭した。何度も諭した。諭しているうちにただならぬことが生じた。どうしてそうなったのか良房にもわからなかった。高子が悪かった気がする。しかし、良房にも責任があったのである。重ねるうちに、もともと二人は気が合ったから、こうなるのが自然なことのように思えてきた。宿命なのだと二人は言い合った。
 良房は孤独だった。妻の潔姫(きよひめ)はすでに亡くなっていた。側室は一度も持たなかった。潔姫の代わりに妻をもらう気持ちもなかった。子どもはいなかった。いや、一人、娘がいた。明子(あきらけいこ)だ。先帝に嫁していた。しかし、この娘は自分の娘ではないと知っていた。良房は子どもを作れなかった。それは世間的には不幸だったが、良房にはそうではなかった。妻の潔姫と二人で暮らしていけばよいと思っていた。ところが、妻はそうは考えなかったらしい。兄の長良がよく遊びに来る時期があった。来れば楽しそうに飲む。飲めば泊まっていく。その時期に兄が妻の部屋に忍んだのだろう。兄は潔姫がそれほど好きそうでもなかった。潔姫が願ったのだろう。自分に子どもを持たせようとして。潔姫の侍女に真相を聞き出したわけではないので、推測に過ぎなかったが、きっとそうだと良房は思っている。妻は夫の将来を考えて決断したのだ。兄は悩んだ末に妻に従ったのだ。
 良房の回りは妙におせっかいだった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日