芥川

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 良房も若いころから武士の生活に魅力を感じていた。藤原北家に生まれても次男では氏長者になることは難しい。大納言の地位を手に入れることさえあまり現実的なこととは思えない。人生の前半は国司として諸国を渡り歩き、晩年に中納言になるというのがせいぜいのところだろうと、若い良房は自分の将来を値踏みしていた。良房は実際的で堅実だった。願望が実現することを見越して何かをするということがなかった。むしろ、現実化しそうなことだけを想定してその対応策をあらかじめ計画し、その計画に沿って地道に努力した。良房がしてきたのは大きく分けると学問と武芸である。学問は政治に携わる者として、必要欠くべからざることであった。武芸は学問に比べると必要度が低かった。実際、貴族で武芸を磨かない者も少なくなかった。しかし、良房は武芸を磨いた。将来国司となった場合、領内で起きた反乱を収めるために、兵を率いなければならないことがあるかもしれない。もちろん任国の武士に頼れば済むことだし、実際にそうする国司が多い。しかし、戦乱が起これば、何が起こるかわからない。武芸が自分と自分の家族の身を守ってくれるかもしれない。自分や家族の命を守る力。これを持つ武士は魅力的である。
 良房が武士に魅力を持つ理由はこれだけではなかった。武士は真の実力者だと良房は思っている。たしかにこの日本を統一し支配しているのは天皇であり、また朝廷である。そして、現在その朝廷で最も強い勢力となっているのが藤原北家である。仮にどこかの武士が反乱を起こしても、天皇と朝廷がそれを鎮圧してしまうだろう。しかし、実際に反乱を制圧するのは、朝廷に命じられた武士である。武士の力に頼らなければ反乱を鎮圧することはできない。諸国の武士たちは、朝廷そのものには武士たちを制圧する力がないことに気づいている。だから、たびたび勢力を拡大させた武士による反乱が起こる。彼らが鎮圧できないぐらい勢力を拡大させたら朝廷はひとたまりもないだろう。そうならないのは、彼らより強い武士を朝廷が抱えているからだ。では、この強い武士は朝廷を滅ぼしたくはないのか。滅ぼしたくないだろう。それはなぜか。まず、自分たちが絶対的に強いかどうかわからないからだ。朝廷に刃向かえば、朝廷は他の武士を集めて反撃する。他の武士は反乱を鎮圧すれば、今度は自分たちが朝廷に抱えてもらえる。朝廷に抱えてもらえば、他の武士たちより優位に立てる。そういうことなので、なまじ朝廷に刃向かうよりも、朝廷の味方に付く方が武士にとっても得なのである。もう一つ大きな理由があるはずだ。これは財政的な面である。武士は自分が領有する土地を有力貴族に寄進する。するとそこは国家の土地ではなく、有力貴族の私有地になる。したがって、国庫に税を納める必要はない。有力貴族はその土地の上がりの一部と武士の忠誠を得られる。武士は有力貴族の保護と領民からの税を期待できる。このような貴族と武士の協力関係は互いに非常に有益である。この協力関係を失ってまで、望みの乏しい朝廷滅亡をかけて行動を起こすほど馬鹿馬鹿しいことはない。しかし、その馬鹿馬鹿しいことを起こす者がいた。いたが、その勢いは朝廷の屋台骨を揺るがすほど強くはならずに、鎮圧された。
 良房はそのことを考えた。なぜそんなことをするのだろう。武士の家の者であれば、自分はするだろうか。答えは簡単だ。実現が不可能な願望は持たない。やはり有力貴族に領地を寄進し、その保護を受ける道を選ぶだろう。そして、他の武士より優位に立ち、他の武士が少しでも多く自分の傘下に入るよう工作する。
 良房はさらに思い巡らした。武士の立場に立って考えた場合、どの貴族に近づくのが得策であろうか。もちろん藤原北家だ。藤原北家の氏長者である良房だ。あるいは、良房の後継者の基経……。
「ハッ」
 思わず声を出すと、隣の高子が案じた。
「どうしたのですか」
「いや、何でもない」
 良房はしばらく灯台の灯を見ていたが、やがて高子に向きなおった。
「高子、私の考えを聞くか」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日