芥川

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38

 業平は一も二もなく承知した。ここで摂政に恩を売っておけば、見返りは大きい。そう計算したのである。しかも連れ出し役まで引き受けた。
「本当によろしいのですか」
 御簾の向こうから高子の匂いがした。すがすがしい夏の香りである。
「もちろんです。ほんの束の間とはいえ、あなたと小旅行ができるとは願ってもない幸せです」
(おじさんて頭いいのね)
 高子は厄介ごとを楽しい行事と勘違いしているらしい業平に呆れながら、手はずを簡潔明瞭に説明していった。
「お車は叔父の家の者が取りにうかがいます」
「はい」
「途中で職人の家に寄り叔父の車に偽装します」
「はい」
「職人の家には修理のためと偽り、すでに叔父の車が運び込まれているはずです」
「ちょっとうかがってもかまいませんか」
「どうぞ」
「私の車を良房様のお屋敷に入れるのに、ここまで警戒する必要があるのでしょうか」
「私の兄は腕の立つ武士を使っております。業平様が私に会うために業平様のお車で叔父の家に入ったら、すぐに見つかってしまい、おそらく業平様は追い出されてしまうでしょう」
「なるほど。……それと、もう一つよろしいですか」
「どうぞ」
「車の偽装をさせる職人ですが、……大丈夫ですか?」
「大丈夫とは?」
「信用できるのでしょうか」
「その点は心配ご無用です。職人と言いましても、実際は叔父の使っている武士で、これも相当腕の立つ者でございます」
「はあ、やはり藤原北家の氏長者ともなると強い武士が配下にいらっしゃるのでしょうね」
 高子はそれには答えず、先を続けた。
「偽装が完了したらお車を叔父の家に入れ、申の刻に私が乗って出発いたします」
「はい」
「乗っているのは私と女房の若狭、二人だけです」
「その若狭という女房は大丈夫ですか」
「若狭は摂津の守の娘です。摂津には叔父の荘園があります。若狭の父親はその荘園の武士たちを束ねています。若狭の父親自身も腕の立つ武士です。若狭も武芸の達人と聞いております」
「摂津の守ですか。噂には聞いたことがあります。摂津の武士たちがその気になれば、朝廷を滅亡させることもできるということを聞いた気がします。彼が良房様の配下にいたのですね」
「摂津の守はそんな馬鹿なことはしませんよ」
「まあ、それはそうでしょう。摂政の藤原良房様の配下にいれば、天下を取ったも同じこと。その最高によい地位をわざわざ捨ててまでして、朝廷に刃向かったとしても、確実に勝つ保証などどこにもありませんからね。謀反を起こせば、誰あろう、主人の藤原良房様自身が、他の武士たちを結集させて、摂津の守を鎮圧なさるでしょうからね」
「女の私には難しいことはわかりませんが、業平様のおっしゃるとおりなんでしょうね」
「いやあ、あなたの叔父様には誰も逆らえませんよ」
「先を続けてよろしいですか」
「はい。……ああ、それともう一つ、なぜ摂津の守の娘なのに若狭と呼ばれているのですか」
「父親が若狭の守をしていたころ、叔父の家に出仕したからです」
「なるほど」
「叔父の家を出たら、二条にある叔父の別院であなたにお乗りいただきます。あらかじめ叔父の家人があなたをお迎えに上がり、早めにそこで控えていただこうと思います」
「はい」
「そのあと、四条の市場でお車を止め、あなたとお食事を取らせていただきたいと思います」
「そんなことしたら大騒ぎになりますよ!」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日