芥川

芥川
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39

 夏の宵は明るい。夕顔が日を浴びて白く光っている。夕顔のつるが籬(まがき)にからまっている。つるは牛車の轅(ながえ)にからまりそうだ。
「あれは業平様のお車じゃないか」
 野菜の入った袋を手にさげた男が立ち止まった。
「何言ってんだよ。業平様がこんなところにいるかよ」
 酒壺を抱えている男はすぐに歩きだした。その目の前に業平が立っていた。
「業平様だ!」
 業平は女の手を引っ張っていた。女はいやがっていた。
「お離しください」
 弱々しいが、優美でかわいらしい声に男たちには思えた。助けたいが、相手が殿上人ではどうすることもできなかった。業平は女を牛車に乗せ、その場から立ち去った。残された群衆は騒ぎ合った。
「今の業平様じゃねえか」
「あたしは、ずっと見てたよ。あの店から出て来て、牛車まで女御様を引っ張って行くのを」
「ありゃあ、女御様かい?」
「知らないよ。あんな高貴なお方は女御様じゃないかと思っただけだよ」
「もしかして高子様じゃないかねえ」
「え? 高子様って、染殿の姪御さんの高子様かね」
「ああ、そうか! 業平様は高子様の所にお通いになっているっていう話だもんな」
「でも、袿(うちき)をかぶっていたから顔がよくわからなかったぞ」
「あたしは見たよ。たしかに高子様だよ。長谷寺でお籠もりしたときに、食事を運んだことがあって、何度か見たことがあるんだよ」
「あんた、殿上人と知り合いがあるのか」
「昔は、あたしもお偉いさんの家で働いていたのさ。前の亭主が死んでから落ちぶれて、今じゃ野菜を売り歩いているけどさ」
 魚を買いに来た女が立ち止まった。
「どうしたの?」
 魚を焼いていた男は女に焼き立てを渡した。
「業平様が高子様を連れて行ったって」
「えー、それ、本当なの?」
 女は目を丸くして訊いた。
「業平様は高子様の所へお通いになっていらっしゃるそうなんだけど、どうしても結婚を許してもらえないので、とうとう駈け落ちしたそうですよ」
「高子様って五条后のお屋敷にいるんでしょ?」
「そう、そう」
「そこから連れ出したの?」
「へい、どうもそうらしいんですよ」
「五条后のお屋敷からは探しに来ないんですか」
「染殿から追っ手が出ているって聞いたんですがね」
「染殿って、高子様の叔父さんの良房様?」
「へい」
「何言ってんだ。染殿が基経様に連れ戻すよう命じたらしいぜ。さっき、馬に乗った武士がつむじ風みたいに走っていったぜ」
 干し魚を注文した男が混ざった。
「ありゃあ、基経様の使ってる武士かい?」
 煮魚を注文した男も話に割り込んだ。
「そうさ」
「あの武士の出で立ち、見かけないなあ」
「東国から来たらしいぜ」
「東国?」
「ああ、東国の武士は強いらしいぜ」
 街はあちらでもこちらでも業平と高子の話で持ちきりになった。もうすでに日は落ちて、酒家の灯があかあかと人を誘っていた。
 干し魚を袋一杯に持ち帰った男が板戸を開いた。厨房に入り、炭火に干し魚を並べると、匂いに誘われて客が入ってきた。にぎやかになったころ、市場で野菜を売っている女が来た。男の妻だった。魚を焼く男の脇で野菜の煮物を土器に並べたり、酒を温めたりした。
 女は料理と魚を持って厨房から出た。一人で座っている男の前に置くと、男は小さな袋を渡した。
「ありがとうございます」
「二人ともよくやってくれたな」
「それではごゆっくりどうぞ」
 男は良房配下の摂津の武士だった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日