芥川

芥川
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 夜の川は涼しい。風が高子のかぶっている衣を揺らす。
「本当によろしいのですか」
「基経を撒くためにはそのぐらいしないとだめです」
「しかし良房様がせっかく摂津への馬を用意なさっておられたのに」
「いいんです。こうしてやっとまたあなたと二人きりになれたんですから、あなたの望むところへ私は連れて行ってほしいのです」
 高子の瞳に月が映っていた。
「実はこういうこともあろうかと思いまして、惟喬親王の別業をお借りしてあるのです」
 業平の精悍な顔は、惟喬親王に随行した鷹狩りでよく焼けていた。もう年配になったが、体は鍛えられ、若々しかった。日々武芸を怠らない良房も年齢よりはずっと若く見えたが、さすがに業平には及ばない。業平は男盛りと言ってもおかしくない。高子はそんなことを思った。
「あら、業平様も抜け目ないお方ですこと。でも、惟喬親王の別業ではわかりやすくありませんか」
 業平は弱った。その通りだと思ったのだ。
「いや、面目ない。どうしましょう、次の港で戻りますか?」
「いいじゃないですか。せっかく船に乗ったのですから、水無瀬までは行ってみましょう」
 こんなとき、女の方が大胆だと、業平は思った。
 杭に縄を結ぶ者、水無瀬と叫ぶ者、客が降りるのを手伝う者、港の男たちは生き生きと働いていた。
 暗いし、身をやつしているだろうから、見つけるのは難しかった。しかし降りる客はまばらになった。惟喬親王の家人は不審に思う。すると、すっと女が寄ってきた。気配を感じなかったので、驚いた。
「高子様の従者で若狭と呼ばれている者です」
 若狭は深々と頭を下げた。
「はあ、そうですか」
 男は想定していない展開だったので、若狭という女に言うべき言葉を探しあぐねていた。
「このたび、私の主人は、業平様に便宜を図っていただき、水無瀬の親王様の別業に避暑にお伺いする予定でしたが、途中で船酔いをしまして、山崎でお休みすることになりました。私はそれをお伝えするため水無瀬まで参った次第でございます。このたびはさまざまご配慮くださったにもかかわらず参上できなくなってしまったこと、くれぐれもよろしく伝えてほしいとのことでございます」
「そうでございましたか。親王は現在こちらにはおりませんが、高子様が静養のため、二、三日ご滞在なされるということを聞き、大変喜んでおりましたが、そのような事情では致し方ありますまい。くれぐれもよろしくお伝えください」
 若狭はまた深々と頭を下げた。
「一つ、お願いがございますのですが」
「なんなりと」
「基経様のご家来が近々挨拶に見えると思います」
「基経様のご家来が、何のために?」
「高子様が訪問する予定があるかどうか確かめるためでございます」
「なぜそんなことを確認に?」
「詳しくは今申し上げることができませんが、親王様にご心配をお掛けすることになったら済まない、ということを私の主人は大変心配しております」
「では、高子様が訪問する予定はなかったことにした方がよいのでしょうね?」
「ええ、お願いいたします」
 若狭はまた頭を下げ、いとまごいをした。若狭の後ろ姿が小さくなっていく。
 大きな物音がした。振り向くと、馬上の武士がにらんでいる。
「惟喬皇子の御家人ですか」
「はい」
「なぜ港まで来られたのですか」
「商人から魚を受け取ったのです」
 包みを高く上げた。男は心の中で若狭の機転に感謝した。武士はいろいろ訊いたが、先ほどの若狭との打ち合わせ通りに答えると、あきらめて馬に鞭をくれた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日