芥川

43
芥川の河原は月に照らされていた。草の上の露に月が見える。
「わあ、きれい」
業平の背に高子の声が響く。
「何に見えます?」
「真珠!」
「深窓のご令嬢はこれだからな」
高子の引き締まった体は深窓のご令嬢のものではないように思えた。しかし、そんなふうにからかってみたかった。この世のものとは思えないほど美しい光景に、気持ちが高ぶっていたのである。
「私たち下々のように野原を歩き回ることはないのでしょうからねえ」
「あら、そんなことないわ。私は若狭といつも馬に乗ってるのよ」
「本当ですか!」
「本当よ。身なりをやつして、まるで武家の姉妹のように勇ましいのよ」
「しかし、良房様がよくお許しになりますね」
「叔父はそういうことに理解があるのよ」
「さすが良房様だ」
「でも、護衛が付いているのよ」
「まあ、それはそうでしょうな」
「今と同じよ」
「今と?」
「業平様にはおわかりにならない」
「何がですか?」
「土手よ」
「土手?」
「たまに影が見えませんか」
業平は土手を見た。月の光で木の長い影ができていた。その他には何もない。
「木の影しか見えませんよ」
「ほら」
高子が指をさした。高子の体が業平の背で動く。
「何ですか? 何も見えませんが」
「また、ほら」
高子の体が業平の背中で動く。
「どれ」
業平も気を付けて見た。そのうちにわかった。土手の向こう側を移動する者の頭が時折土手の上に出て、それが影を作るのだった。
「見えましたよ。しかし本当に護衛なのですか」
「止まって」
業平は止まった。高子は背から降りた。
「どうしたんですか」
「影を見てください」
業平は土手を見た。
「影も止まりましたね」
「少し休みましょう」
「大丈夫ですよ」
「お疲れでしょう?」
「全然。こう見えても私も武芸に励んでおりますからね」
業平は背が高く、筋肉質だった。惟喬親王のお供で狩りに出かけ、馬を乗り回したり、野山を歩き回ったりすることが多いからだ。また、自邸でも弓や刀の稽古を日課にしていた。業平は叔父とよく似ていると高子は思った。
「でも、私、もうこの先は歩いて行きますよ。地面だってもうぬかるんでいないわ」
昨日までの雨で芥川の河原はあちこちぬかるんでいた。高子の着物の裾が汚れないように、ここまで業平がおぶってきたのだった。
「若狭、まだ遠いの?」
二人の前を歩く若狭は後ろを向き、きちんと高子に向き合った。
「いいえ、実はもう着きました」
若狭は足場のよいところを見つけて、二人に土手を登らせた。土手の一番高いところまで業平は駆け上り、何かを探した。
「業平様、どうかしました?」
「先ほどの護衛を探しているのです」
「ふふ、無理よ。摂津の武士は素早いですからね」
「たしかに。もう影も形もない」
「私が外へ出るといつも見張っているのよ」
「いつから」
「叔父の家に来てから」
高子は下を向いた。しばらくして上を向いた。
「どうしたのですか」
「もしかすると昔からずっと見張っていたのかもしれない。あなたが通ってくるようになったときよりもずっと以前から」
「わあ、きれい」
業平の背に高子の声が響く。
「何に見えます?」
「真珠!」
「深窓のご令嬢はこれだからな」
高子の引き締まった体は深窓のご令嬢のものではないように思えた。しかし、そんなふうにからかってみたかった。この世のものとは思えないほど美しい光景に、気持ちが高ぶっていたのである。
「私たち下々のように野原を歩き回ることはないのでしょうからねえ」
「あら、そんなことないわ。私は若狭といつも馬に乗ってるのよ」
「本当ですか!」
「本当よ。身なりをやつして、まるで武家の姉妹のように勇ましいのよ」
「しかし、良房様がよくお許しになりますね」
「叔父はそういうことに理解があるのよ」
「さすが良房様だ」
「でも、護衛が付いているのよ」
「まあ、それはそうでしょうな」
「今と同じよ」
「今と?」
「業平様にはおわかりにならない」
「何がですか?」
「土手よ」
「土手?」
「たまに影が見えませんか」
業平は土手を見た。月の光で木の長い影ができていた。その他には何もない。
「木の影しか見えませんよ」
「ほら」
高子が指をさした。高子の体が業平の背で動く。
「何ですか? 何も見えませんが」
「また、ほら」
高子の体が業平の背中で動く。
「どれ」
業平も気を付けて見た。そのうちにわかった。土手の向こう側を移動する者の頭が時折土手の上に出て、それが影を作るのだった。
「見えましたよ。しかし本当に護衛なのですか」
「止まって」
業平は止まった。高子は背から降りた。
「どうしたんですか」
「影を見てください」
業平は土手を見た。
「影も止まりましたね」
「少し休みましょう」
「大丈夫ですよ」
「お疲れでしょう?」
「全然。こう見えても私も武芸に励んでおりますからね」
業平は背が高く、筋肉質だった。惟喬親王のお供で狩りに出かけ、馬を乗り回したり、野山を歩き回ったりすることが多いからだ。また、自邸でも弓や刀の稽古を日課にしていた。業平は叔父とよく似ていると高子は思った。
「でも、私、もうこの先は歩いて行きますよ。地面だってもうぬかるんでいないわ」
昨日までの雨で芥川の河原はあちこちぬかるんでいた。高子の着物の裾が汚れないように、ここまで業平がおぶってきたのだった。
「若狭、まだ遠いの?」
二人の前を歩く若狭は後ろを向き、きちんと高子に向き合った。
「いいえ、実はもう着きました」
若狭は足場のよいところを見つけて、二人に土手を登らせた。土手の一番高いところまで業平は駆け上り、何かを探した。
「業平様、どうかしました?」
「先ほどの護衛を探しているのです」
「ふふ、無理よ。摂津の武士は素早いですからね」
「たしかに。もう影も形もない」
「私が外へ出るといつも見張っているのよ」
「いつから」
「叔父の家に来てから」
高子は下を向いた。しばらくして上を向いた。
「どうしたのですか」
「もしかすると昔からずっと見張っていたのかもしれない。あなたが通ってくるようになったときよりもずっと以前から」