芥川

芥川
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 芥川の河原から土手を乗り越えると、一軒の農家があった。粗末に見えた。夏草が生い茂り、屋根や壁が所々壊れていた。そこへ若狭が何のためらいもなく歩いていく。高子の歩調にも何の迷いもない。業平だけが困惑していた。
「あのあばら屋に入るのですか」
「はい、そうですが」
 若狭は後ろの業平を見た。
「しかしあの家は誰も住んでいない廃屋に見えますよ」
「大丈夫ですわ」
 若狭はまた前を向いた。
 粗末な農家の崩れた門をくぐった。夏草が丈より高く生い茂っている。若狭はためらわずにくねりながら歩く。高子も歩く。業平は勇気を持って草の中に体を突っ込む。驚いた。草の中に曲がりくねった細い道ができている。先へ行く高子の姿が消えた。業平は慌てて走る。馬小屋の横を通って、また曲がると広い庭に大きな農家があった。家の前だけ草は一本もない。きれいに掃き清めてある。反対側を見ると草原である。その向こうに崩れた板塀が囲み、その向こうは果てしない草原である。農家は先ほど見たときと同じように屋根や壁が所々壊れていた。
「業平様、これをご覧ください」
 若狭は壁板をはがした。
「若狭殿、そんなことをしてはいけませんよ!」
 業平は駆け寄って、若狭から壁板を奪い取って、元に戻そうとした。
「あれ? これはいったい?」
 若狭がはがしたところに新しく頑丈そうな壁板が見えた。
「ふふっ、業平様、この家全体を朽ちた材木や蔦で覆っているのです」
「そうよ、武士は敵から身を隠す場所をあちこちに造っているのよ」
「なるほど、そうでしたか、それならば、決して追っ手に見つかることはありませんね」
「いいえ、基経や東国の武士はそんなに甘くないわ。ここが見つかるのも時間の問題でしょう」
「それではどうするのですか」
「どうもしないわ。基経がやって来たら、潔く都に戻るだけよ」
「やはりそれでよいのですね。いや、私は本気でこのまま高子様が武士の里でお暮らしになるのではと心配しておりました」
「もしこのまま逃げ切れるならそれもよいと思っておりました。業平様が武士の棟梁になるお気持ちがあれば、私はあなたと一緒に摂津で暮らしますわよ」
「私は高子様と一緒になることができるならば、武士の棟梁になりますよ」
 高子は笑い崩れた。
「冗談ですよ。いやだわ、武士の棟梁だなんて、業平様には務まりませんわよ。それに私、清和天皇に入内して、皇后になることしか考えていないわ」
 高子は毅然とした表情で業平を見た。
 業平には高子の本心が読み取れなかった。謎が多い。摂政の血族とはこういうものだろうか。業平は先ほど高子が言ったことを思い出した。
「そういえば、私と一緒になる前から良房様の配下の武士があなたを監視していたのではないかとおっしゃっていましたが、それはどういうことですか」
「叔父は深謀遠慮の人です。私をいずれ天皇に入内させようとして、小さいころから摂津の武士に監視させていたのかもしれないと思ったのです」
「それに気づいたのですか」
「先ほどの土手の影で気づいたのです。小さいころから、あのような影をよく見たなあと思って……そうしたら、叔父の意図がわかったような気がして」
 業平は良房の恐ろしさを感じた。
「だけどなぜかしら」
「何がですか?」
「昔から私のところへ来ようとした男の人は叔父か基経のどちらかが私の知らないうちに帰したのです。しかし業平様は帰されませんでした」
「私はうまく忍び込んだのです」
「いえ、それはできません。きっと叔父があなたを認めたのです」
「いったいそれはなぜでしょうか?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日