芥川

45
灯台を置くと、若狭は深々とお辞儀をした。
「お休みなさいませ」
若狭が戸を締めると、高子は瓶子(へいし)を傾けた。
業平は盃を口に運んだ。
「私が良房様に買われている?」
「はい」
「しかし私は惟喬親王の側近ですよ」
惟喬親王は文徳天皇の長男である。聡明で文徳天皇から愛されていたので、次の天皇になるのが当然であった。しかし惟喬親王の母は藤原氏ではなく紀氏であった。紀名虎の娘である。一方即位した清和天皇は良房の孫であった。つまり良房の反対によって惟喬親王は即位できなかったということだ。業平は紀名虎の孫と結婚しているから紀氏に近い。その業平を良房が買うというのはどうにも納得しがたい。
「惟喬親王の側近でも有能なら叔父はほしいのだと思います」
「私が有能?」
「ええ、それに真面目な方だとうかがっております」
「真面目な人間が天皇に入内するお姫様のところへ忍び込むでしょうか」
「先ほども言いましたが、それは叔父から容認されているようです」
「それがわからない。なぜなのでしょう?」
高子は知っていた。清和天皇に入内できなくして、良房が自分を妻にするためだ。しかしそれは言わなかった。
「私には父がおりません。天皇に入内しても、後ろ盾がありません。叔父の良房は世話をしてくれるでしょうが、もう高齢です」
「しかし私にはとても良房様のようにあなたのお世話を致すことはできませんよ」
「公的な庇護者ではなく、私的な庇護者になっていただくことは可能でしょうか」
「私的な庇護者」
「私が困っているときに助けてもらいたいのです」
「それなら大丈夫です。喜んでお引き受けいたしますよ」
「ありがとうございます」
高子は深々とお辞儀をした。高子が頭を上げると、たくましい腕に抱きすくめられた。高子はそのまま身を任せた。
「高子様」
「何ですか?」
業平は幸福だった。夢を見ているのはわかっていた。すぐに醒めるはずである。しかし今はどうしてもこれが永久に続くと思いたかった。高子が五条后の屋敷にいたころ、業平は何度も通った。五条后とは文徳天皇の母君である順子(のぶこ)である。順子の兄に長良と良房がいる。長良の娘が高子である。つまり、高子は良房にとってだけでなく順子にとっても姪である。その叔母のところへ出仕していた高子に、業平は初め復讐心から近づいた。業平の近親の惟喬親王は良房の思惑で天皇になれなかった。惟喬親王が天皇になれば、業平は公卿になれただろう。惟喬親王は聡明だった。実行力もあった。天皇を利用して勢力を拡大した藤原北家を追い払う計画を立てていた。紀氏が惟喬親王の計画を実現しただろう。業平ももちろんそれに手を貸したはずである。しかしその計画はうまくいかなかった。惟喬親王は天皇になれなかった。まだたった九歳の清和天皇が即位した。九歳で政治などできるわけがない。政治は完全に良房の思い通りである。これで良房がかわいがっている姪の高子が入内し、皇子が誕生したら、藤原北家は誰にも抑えられなくなる。だからそれを阻止しようとしたのだ。紀氏も賛成した。もちろん惟喬親王も賛成した。業平は藤原北家の大事な箱入り娘に接近した。高子が業平に夢中になったら、捨てる。高子が嘆き悲しんだら、出家を遂げさせる。そのように高子に働きかける女房もあらかじめ身辺に置いてあったのである。それなのに、業平は高子に引かれてしまった。高子よりもむしろ業平の方が夢中になってしまった。順子に気づかれ、良房宅に移されたときに、悲しんだのは業平の方であった。悲嘆に暮れているとき今回の計略が舞い込んだ。良房と高子の計略に乗せられた振りをしていたが、業平は高子と二人になれて幸福だった。これが一時的な逢瀬になるとはわかっていたが、永続的なものになるのを願わずにはいられない。
「お休みなさいませ」
若狭が戸を締めると、高子は瓶子(へいし)を傾けた。
業平は盃を口に運んだ。
「私が良房様に買われている?」
「はい」
「しかし私は惟喬親王の側近ですよ」
惟喬親王は文徳天皇の長男である。聡明で文徳天皇から愛されていたので、次の天皇になるのが当然であった。しかし惟喬親王の母は藤原氏ではなく紀氏であった。紀名虎の娘である。一方即位した清和天皇は良房の孫であった。つまり良房の反対によって惟喬親王は即位できなかったということだ。業平は紀名虎の孫と結婚しているから紀氏に近い。その業平を良房が買うというのはどうにも納得しがたい。
「惟喬親王の側近でも有能なら叔父はほしいのだと思います」
「私が有能?」
「ええ、それに真面目な方だとうかがっております」
「真面目な人間が天皇に入内するお姫様のところへ忍び込むでしょうか」
「先ほども言いましたが、それは叔父から容認されているようです」
「それがわからない。なぜなのでしょう?」
高子は知っていた。清和天皇に入内できなくして、良房が自分を妻にするためだ。しかしそれは言わなかった。
「私には父がおりません。天皇に入内しても、後ろ盾がありません。叔父の良房は世話をしてくれるでしょうが、もう高齢です」
「しかし私にはとても良房様のようにあなたのお世話を致すことはできませんよ」
「公的な庇護者ではなく、私的な庇護者になっていただくことは可能でしょうか」
「私的な庇護者」
「私が困っているときに助けてもらいたいのです」
「それなら大丈夫です。喜んでお引き受けいたしますよ」
「ありがとうございます」
高子は深々とお辞儀をした。高子が頭を上げると、たくましい腕に抱きすくめられた。高子はそのまま身を任せた。
「高子様」
「何ですか?」
業平は幸福だった。夢を見ているのはわかっていた。すぐに醒めるはずである。しかし今はどうしてもこれが永久に続くと思いたかった。高子が五条后の屋敷にいたころ、業平は何度も通った。五条后とは文徳天皇の母君である順子(のぶこ)である。順子の兄に長良と良房がいる。長良の娘が高子である。つまり、高子は良房にとってだけでなく順子にとっても姪である。その叔母のところへ出仕していた高子に、業平は初め復讐心から近づいた。業平の近親の惟喬親王は良房の思惑で天皇になれなかった。惟喬親王が天皇になれば、業平は公卿になれただろう。惟喬親王は聡明だった。実行力もあった。天皇を利用して勢力を拡大した藤原北家を追い払う計画を立てていた。紀氏が惟喬親王の計画を実現しただろう。業平ももちろんそれに手を貸したはずである。しかしその計画はうまくいかなかった。惟喬親王は天皇になれなかった。まだたった九歳の清和天皇が即位した。九歳で政治などできるわけがない。政治は完全に良房の思い通りである。これで良房がかわいがっている姪の高子が入内し、皇子が誕生したら、藤原北家は誰にも抑えられなくなる。だからそれを阻止しようとしたのだ。紀氏も賛成した。もちろん惟喬親王も賛成した。業平は藤原北家の大事な箱入り娘に接近した。高子が業平に夢中になったら、捨てる。高子が嘆き悲しんだら、出家を遂げさせる。そのように高子に働きかける女房もあらかじめ身辺に置いてあったのである。それなのに、業平は高子に引かれてしまった。高子よりもむしろ業平の方が夢中になってしまった。順子に気づかれ、良房宅に移されたときに、悲しんだのは業平の方であった。悲嘆に暮れているとき今回の計略が舞い込んだ。良房と高子の計略に乗せられた振りをしていたが、業平は高子と二人になれて幸福だった。これが一時的な逢瀬になるとはわかっていたが、永続的なものになるのを願わずにはいられない。