芥川

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 灯台のほのかな明かりで、髪や目元、うなじが何ともいえないほど美しく見えた。業平は高子に会えなくなって、あきらめようとしたが、今夜こうして二人きりになることができて、この姿を見ていると、どうしても自分だけのものにしたいと思った。高子は何ともいえないほどよい香りがした。業平はその香りに酔った。
「高子様」
「何ですか?」
 二人はこのやりとりをもう何度も繰り返していた。
「私はもうあなたを離したくない。私と一緒にこのまま東国へでも行きませんか」
「あなたとなら東国へでもどこへでも行きますわ」
 あと十年若かったら、この言葉を信じ、行動に移したかもしれない。しかし業平はもう少しで四十に届く年齢だった。さすがに高子の言葉を文字どおりに受け取るような青さはもう残っていなかった。もはやがっちりと生活の基盤も仕事の基盤も出来上がっていた。今回の駈け落ち劇も基本的には完成度の高い台本に従って演技をしているに等しい。それに東国に行きたいと言っても、高子がそれを本気にしないとわかっているから、口に出しているのだ。本気で東国に行くつもりになる女だったら、業平はそんなことは言わない。そういうことを全部含めて、やはり高子とこれで最後になるのは、あまりにも惜しいと業平は思った。
 しとねで二人は向き合った。
「しかしこれで私たちは本当に会えないのでしょうか」
「あら、いつでも会えるわよ」
「しかしあなたは清和天皇の皇后におなりになるのですよ」
「だって、約束してくださったでしょう?」
「約束?」
「私が困ったときは助けに来てくださるって」
「ええ、それはもちろんです」
「私は後宮に移ったらすぐ困りますわ」
「どうしてですか」
「きっと退屈でしょうから」
「あなたの退屈を紛らすために私は参上するのですか」
「だって、困ったときは助けてくださるんでしょう?」
「では、時折は参上いたしましょう」
「時折ではだめですわ」
「では毎日参上します」
「きっとよ」
「必ず」
「だけど、その前に業平様にはしていただくことがあるわ」
 業平には高子が何を言い出すのかはわからなかった。
「業平様、武芸には自信がございますか」
 業平は、ええとだけ答えた。
「これから業平様には東国に行ってもらいたいと思います」
「東国?」
「あなたは左兵衛権佐(さひょうえのごんのすけ)になるはずです。この役職に就けば、ご存知のこととは思いますが、国司たちとの関係ができます。それで、基経配下の東国の武士たちに目を光らせてほしいのです」
 業平に高子の意図が見えてきた。
「このあと京に戻ったら、あなたは通常通り職務に当たってください。左兵衛権佐になるのは来年です。就任したら、すぐに東国巡検の命が下るでしょう。ご心配なさらないでください。これは形だけの巡検です。三河、駿河、武蔵を回ったら帰ることになるでしょう。しかし形だけとはいっても、この巡検地帯に東国武士の根城があり、それを偵察することになりますから、危険が伴います」
「武芸には自信がありますから、ご心配無用ですよ」
「東国でお手紙を送ってください」
「もちろんです」
「そろそろ準備なさってください」
「わかりました」
 強烈な雷が落ちて業平の返事は高子の耳に届かなかった。業平は武装して部屋から出た。
「お気を付けて、業平様。お慕い申しております」
 高子の声は業平の耳に届かなかった。
 雷鳴が業平の影を襖障子(ふすましょうじ)に落とした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日