芥川

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48

 橘が通り雨に濡れていた。夏の日が照り始めた。風はまだ涼しかった。すぐに蒸し始めるだろう。
 良相(よしみ)の前に良房、国経、基経が座っている。
「申し訳ないな、こんなむさ苦しいところに。今度の会合で説明しなければならないからな」
 良相が扇子を使った。余裕のある表情だった。
 近々、藤原北家の会合が開かれる。今回は高子のことが一つの問題として取り上げられる。いや、この件のためにこそ会合は開かれるのである。その前に事件の関係者のいわば事情聴取をする役目を良相は引き受けたのである。力関係からいっても、策略の巧みさからいっても、良房は良相のかなう相手ではない。しかし良相はそうは思っていない。思ってはいないが、相手が手強いということはそれなりにわかっているつもりでいる。良相が考えているのは、良房の優位に立ちたいということだ。そして今回それは容易に思えた。なぜなら事実は明瞭であるからである。これ以上の絶好の機会はないと良相は思った。
「本当に今回のことは済まなかった。私の家のことで一族に心配をかけてしまった」
 良房は深々と頭を下げた。国経、基経もそれに倣った。二人は何も言わなかった。
 三人には似合わない弱々しい姿を見て、良相はほくそ笑んだ。
「それで、今回のことはどういうことなんだ。私にはまったく何もわからないのだ。高子が業平殿と駈け落ちしたとかしないとか、世間で騒いでいるのが、うっとうしい限りなのだが、そうは思わないか」
「いや、ごもっとものことだ。私もどうしてそういう話になったのか理解に苦しんでいる」
 良相は何を言っているのだと言いたげな表情をした。
「またとぼけて、兄さんは。だって高子は今兄さんが監督しているんだろう? 順子姉さんのところで業平殿が通ってくるようになって、悪い評判が立ち始めたから、高子を兄さんに引き取ってもらって、監督してもらっていたんじゃないか」
 良房はまっすぐ良相を見た。
「まったくその通りだ。高子の監督は私が責任を持って、しっかりとやっているところだ」
「しっかりとやっているところだって? 全然しっかりやっていないじゃないですか」
「いや、そんなことはない。私は高子を完全に掌握している」
 良相は、怒りをあらわにした。
「兄さん、いい加減にしてくれよ。じゃあ、なぜ高子は業平殿と駈け落ちなんかしたのだ。摂津まで逃げていったそうじゃないか」
 良房は不思議そうな顔をして、国経と基経の顔を代わる代わるに見た。
「お前たち、高子は業平殿と摂津まで逃げたのか?」
 国経がためらっていると、基経が代わりに答えた。
「たしかに高子が摂津守に招かれ、摂津守の別業を訪問したのは事実ですが、業平殿が同行したということはありません」
「何!」
 良相の顔が赤くなった。目がつり上がっている。
「そうですよね、兄さん」
「基経の言うとおりです」
「これは、いったい、どういうことだ!」
 良房は弟に冷静に説明した。
「近々藤原北家の会合を開き、説明しようと思っていたのだが、私はまずお前に了解してもらいたいと思っている」
 良房は説明した。最近東国の武士から寄進を受けた。その荘園は基経に譲る。高子には自分が前から持っていた摂津の荘園を譲る。これで自分が死んだあと、二人は何とか暮らしていけるだろう。業平の噂が流れたのがなぜかはわからない。噂の好きな世間の人々が流したのではないか、と。
「兄さんは荘園を全部養子に渡すのか!」
「高子の入内は取りやめる。代わりにお前の娘の多美子を清和天皇に入内させる。私は政界から引退する。お前にはいずれ太政大臣になってもらうつもりだ」
 良相の心は、晴れのち大雨のち快晴であった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 芥川
◆ 執筆年 2021年10月10日