芥川

50
夏の月が窓から見えなくなった。車は止まった。
良相(よしみ)は藤原北家の会合を思い出した。良房の提案に異を唱えるものは誰もいなかった。一番異を唱えそうな良相がすでに良房の提案を了承していたからだ。何だか妙な気もするがしかしこれはめったにない好機だ。良相はやってみようと思った。良房が大人しくなったこの時に、良房、基経がもうすっかり追いつけなくなるところまで走ってみよう。
車から廊に降りようとすると、出迎えられた。伴善男(とものよしお)だった。伴善男はこれから驚くことになる。その時の顔が目に浮かぶようだった。若い女房が良相を席に案内し、飲み物を出した。白い単衣(ひとえ)に袴だけの姿だった。もう一人若い女房が入り善男に酌をした。これも白い単衣に袴だけだ。単衣が薄いのでその下の肌が透けて見えた。善男は酔うと女房に戯れた。良相は静かに言った。
「中納言、私は静かに話がしたい」
「あ、これはどうも、酒を飲んで気分がよくなってしまったもので」
善男は女たちを部屋から出した。
良相は酒や女を好まなかった。善男は有能だが、そういうところにややだらしない。これからの計画を進める上で、少し心配があった。しかし善男をおいて他に適当な人物がいないのも事実だった。良相は政治を変えたかった。今の政治は間違っている。その根幹は地方が乱れていることにある。もちろん中央政府の在り方がその要因になっている。悪の根源は荘園だ。地方の有力者が公卿に寄進する。するとそれは公卿の私有地になるから、租税の義務が生じない。荘園の住民は助かる。一番助かるのはその地方を事実上支配している者である。それは大抵武士である。武士は力を付ける。荘園領主である公卿はその武士の力を利用する。強い武士集団を持っている公卿は当然幅を利かせる。一番幅を利かせているのが自分たち藤原北家である。良相は藤原北家の一員、しかも、そう遠くない将来に良房に代わって氏の長者になることを期待されているにもかかわらず、藤原北家が幅を利かせているのが気にくわない。なぜならば、このままでは天皇の権力が弱まる一方だからだ。藤原氏は藤原氏、どんなに幅を利かせても天皇になることはできない。それなのに藤原氏の権力が必要以上に大きくなりすぎている。これを今是正しなければ後々禍根を残すことになるのではないか。荘園が発展したため国庫の収入が減少している。国庫の収入が減少すれば天皇の力は弱まる。天皇の力が弱まれば反乱を起こして王になろうと思う者が出る。地方の武士の誰かがそう思い、しかもそれが実現したら日本中の武士がその者に服従するかもしれない。その時は藤原氏も服従せざるを得ない。いや、そうなる前に滅ぼされるだろう。何しろ反乱を企てる者にとって最も邪魔な存在は藤原氏であろうから。だから、そうならないために今何かをしなければならない。何をすればよいか。天皇の力を強めるのである。そのためには荘園をなくし、地方の租税が国庫に漏れなく納められなければならない。荘園がなくなれば武士も弱くなる。武力は朝廷を中心に再編しなければならない。公卿の役割も見直す。一氏の独占を防ぐ仕組み作りが必要だ。
「その通りだ」
良相の話を一々もっともだと善男は思った。
「しかし矛盾するようだがそのためには、私が荘園を大きくして太政大臣にならなければならない」
「良房公に対抗するには致し方ありませんな」
「良房は荘園を基経と高子に譲るそうだ」
「何!」
善男は恐い顔を近づけた。
「まあ、話を最後まで聞け」
良相は、良房が引退すること、良相に太政大臣を譲ること、高子の入内を取りやめること、多美子を入内させること、それらすべてを約束し、実行に移しつつあることを、努めて平静を保って説明した。善男は驚いたなんてものではない。狂喜した。
「良相殿、私は酒を飲みたい、女を部屋に入れたい」
「好きにするがいい」
良相(よしみ)は藤原北家の会合を思い出した。良房の提案に異を唱えるものは誰もいなかった。一番異を唱えそうな良相がすでに良房の提案を了承していたからだ。何だか妙な気もするがしかしこれはめったにない好機だ。良相はやってみようと思った。良房が大人しくなったこの時に、良房、基経がもうすっかり追いつけなくなるところまで走ってみよう。
車から廊に降りようとすると、出迎えられた。伴善男(とものよしお)だった。伴善男はこれから驚くことになる。その時の顔が目に浮かぶようだった。若い女房が良相を席に案内し、飲み物を出した。白い単衣(ひとえ)に袴だけの姿だった。もう一人若い女房が入り善男に酌をした。これも白い単衣に袴だけだ。単衣が薄いのでその下の肌が透けて見えた。善男は酔うと女房に戯れた。良相は静かに言った。
「中納言、私は静かに話がしたい」
「あ、これはどうも、酒を飲んで気分がよくなってしまったもので」
善男は女たちを部屋から出した。
良相は酒や女を好まなかった。善男は有能だが、そういうところにややだらしない。これからの計画を進める上で、少し心配があった。しかし善男をおいて他に適当な人物がいないのも事実だった。良相は政治を変えたかった。今の政治は間違っている。その根幹は地方が乱れていることにある。もちろん中央政府の在り方がその要因になっている。悪の根源は荘園だ。地方の有力者が公卿に寄進する。するとそれは公卿の私有地になるから、租税の義務が生じない。荘園の住民は助かる。一番助かるのはその地方を事実上支配している者である。それは大抵武士である。武士は力を付ける。荘園領主である公卿はその武士の力を利用する。強い武士集団を持っている公卿は当然幅を利かせる。一番幅を利かせているのが自分たち藤原北家である。良相は藤原北家の一員、しかも、そう遠くない将来に良房に代わって氏の長者になることを期待されているにもかかわらず、藤原北家が幅を利かせているのが気にくわない。なぜならば、このままでは天皇の権力が弱まる一方だからだ。藤原氏は藤原氏、どんなに幅を利かせても天皇になることはできない。それなのに藤原氏の権力が必要以上に大きくなりすぎている。これを今是正しなければ後々禍根を残すことになるのではないか。荘園が発展したため国庫の収入が減少している。国庫の収入が減少すれば天皇の力は弱まる。天皇の力が弱まれば反乱を起こして王になろうと思う者が出る。地方の武士の誰かがそう思い、しかもそれが実現したら日本中の武士がその者に服従するかもしれない。その時は藤原氏も服従せざるを得ない。いや、そうなる前に滅ぼされるだろう。何しろ反乱を企てる者にとって最も邪魔な存在は藤原氏であろうから。だから、そうならないために今何かをしなければならない。何をすればよいか。天皇の力を強めるのである。そのためには荘園をなくし、地方の租税が国庫に漏れなく納められなければならない。荘園がなくなれば武士も弱くなる。武力は朝廷を中心に再編しなければならない。公卿の役割も見直す。一氏の独占を防ぐ仕組み作りが必要だ。
「その通りだ」
良相の話を一々もっともだと善男は思った。
「しかし矛盾するようだがそのためには、私が荘園を大きくして太政大臣にならなければならない」
「良房公に対抗するには致し方ありませんな」
「良房は荘園を基経と高子に譲るそうだ」
「何!」
善男は恐い顔を近づけた。
「まあ、話を最後まで聞け」
良相は、良房が引退すること、良相に太政大臣を譲ること、高子の入内を取りやめること、多美子を入内させること、それらすべてを約束し、実行に移しつつあることを、努めて平静を保って説明した。善男は驚いたなんてものではない。狂喜した。
「良相殿、私は酒を飲みたい、女を部屋に入れたい」
「好きにするがいい」